継営者「次の世代が誇れる未来をつくる」地域みらいグループ社長 脇山 章太氏

 最初、継ぐつもりはなかった―。地域みらいグループの脇山章太社長は、そう振り返る。東京で商社、総合住生活企業でキャリアを重ねる中、転機となったのが東日本大震災だった。「守りたい人を今後、本当に守れるのか」。その心境の変化から自らの現在地を見つめ直し、家業へ戻ることを決断。以来、先代や社員と向き合いながら自らの経営を築き、今では傘下約50社を擁するグループを率いる。経営者としての覚悟をどう培ってきたのか、その経営観に迫る。

Interviewer/財界九州社 社長 山口 亮太郎
わきやま・しょうた/1974年10月生まれ。97年に日商岩井(現双日)に入社後、2000年、住友林業に転身し海外赴任(オランダ)を経て社長秘書を務める。12年北洋建設入社。18年社長に就任

 山口 まず、家業を継ぐという意識は、幼い頃からお持ちだったのでしょうか。

 脇山 いえ、まったくありませんでしたね。母方は代々医者の家系で、私もその家系の熊本県水俣市にあった祖父の病院を継ぐことを期待されて育ちました。小学校の卒業アルバムにも「祖父のような医者になりたい」と書いていたほどです。ですが、高校進学を機に慶應義塾高校へ進み、東京で暮らすうちに自分の弱さもあって医者への思いは次第に薄れ、大学は文系に進んで医者の道をはっきりと断念しました。継がないと決めたことで母はかなりショックを受けていましたし、結果的に母方の病院も閉じることになったので、当時は責任も感じましたね。

 山口 その重みは、想像以上のものだったとお察しします。そこから今に至るまでには、どのような転機があったのでしょうか。

 脇山 大学卒業後は、海外で働きたいという思いが強かったので、商社を中心に就活して、日商岩井(現双日)に入社しました。そこで、たまたま木材を取り扱う部署に配属され、その経験を糧に住友林業へ転職し、念願だった海外(オランダ)の駐在も4年間経験しました。その後、当時の矢野龍社長の秘書を務めさせていただくなど、多忙ながらも充実したサラリーマン生活を送っていました。
 そんな折に大きな転機となったのが、2011年の東日本大震災です。人々の混乱を目の当たりにし、交通機能も麻痺するなか、職場のある丸の内から自宅の武蔵小杉まで、約7時間かけて歩いて帰りました。その道中、妊娠中の妻と合流して二人で歩き続けたのですが、そのとき、家族を十分に守れない自分へのもどかしさを強く感じたんです。オランダにいたとき、仕事だけでなく家族との時間を大切にする生き方や価値観に触れたことも大きかったです。日本では企業戦士になることが美徳とされていますが、このまま東京で暮らし続けることが、本当に自分たちの幸せなのだろうかと。
 それで父・章治(現最高顧問)に電話をして「福岡へ帰ろうと思う」と伝えました。すると父から初めて「それなら、うちで仕事をしたらどうか」と言われました。あの一言が、家業へ戻る直接のきっかけになりました。

「当初は私自身が生意気だった」

 山口 私も当時東京で仕事をしており、同じ震災を経験しました。これまでに見たことのない光景で、自分の現在地を含め何が大事なのか、改めて人生に問いを立てさせられる瞬間だったのはよくわかります。
 その経験を経て、いざ家業に戻られてから、最初に組織を内側から見た印象はいかがでしたか。

 脇山 正直に言えば、当初はかなり私自身が生意気だったと思います。日商岩井や住友林業では、常に高い目標を掲げ、猛スピードで動くことが当たり前でした。その環境から戻ると、会社の規模も仕事の進め方も違いますし、社員の危機感や仕事に対する姿勢も物足りなく見えたんです。「こんなスピードで大丈夫なのか」「もっと早く変えなければならない」と。
 そのとき父から「お前は何をそんなに焦っているんだ。大手企業と地方の中小企業では、社員の考え方も置かれている環境も違う。自分の感覚だけで急いでも仕方がないぞ」と言われました。その言葉で、自分の価値観に社員を合わせるのではなく、この会社が歩んできた歴史や社員への理解を深めながら、そのなかで最適解を探していかなければならないことに気づかされました。

 山口 私自身も福岡に戻ってきてから、改革は「正しさ」や「理屈」だけでは物事が進まないことを実感しました。組織が受け止められる速度を見極め、そこで働く人たちの理解や納得が伴って初めて、変化は根づいていくものなのだと感じています。
 そうした中で、社長が入社当時、社内で最も大きな課題だと感じ、注力して取り組まれたことは何だったのでしょうか。

 脇山 “人財”の採用と教育です。入社当時は、黙っていても人が集まる時代から、選ばれなければ人が来ない時代への転換期でした。ですので、父には反対されながらも、採用チームや社員研修制度を立ち上げ、その基盤づくりに最も注力しました。もちろん、私自身は人材育成の専門家ではありません。住友林業での経験を生かしながら、採用面接や会社説明会、研修づくりにも自ら参加しました。人に任せる前に、まずは自分が一から関わることを大切にしました。

「互いを理解し、認め合うことが出発点」

 山口 自らが汗をかきながら、社員とともに採用と教育の概念をつくり上げたからこそ、一過性の施策ではなく組織の土台として根づいていったのでしょうね。ただ、その風土をつくる過程では、苦労もあったのではないですか。

 脇山 当時、社内には、私と同じ団塊ジュニア世代の技術者や営業担当者が多くいました。私は後継者と見られていましたから、社員も構えていたと思います。ただ、そこで虚勢を張っても仕方がありません。会社を良くするには、自分一人の力では何もできないことを素直に認め、分からないことや足りない部分も含めて社員と向き合い、そして互いを理解し、認め合うことが、チームづくりの出発点だったと思います。

 山口 自らの弱さも開示しながら、社員との横のつながりを築いていかれたと。一方で、先代との関係には、経営者と後継者、父と子という二つの側面があります。その間で難しさを感じる場面もあったのではないでしょうか。

 脇山 父から見れば、私のやり方は生ぬるく映っていたと思います。父の経営は、何かあれば社員がトップに相談し、トップがすべてを決断する分かりやすい形でした。そのやり方で会社を成長させてきたわけですから、間違いだったとは思いません。時代に合った経営だったのだと思います。ただ、その一方で、社員の本音や意向をくみ取りづらいという面もありました。だからこそ私の役目は、その間に立ち、現場の声を拾い、具体的な施策に変えることだと意識していました。

 山口 それは、承継者にしか果たせない“翻訳者”としての役割でもありますね。

 脇山 そう思います。私自身、急激に変えなかったからこそ、大きく間違えずに済んだ部分があります。父の経営を否定するのでもなく、言われたことをそのまま守るのでもなく、時間をかけて、自分なりの正解へ近づいていく。その過程を見守ってくれた父には感謝しています。

「理想とするリーダーは矢野龍氏です」

山口 経営環境が大きく変化する中、脇山社長は2018年の社長就任以来、どのようなリーダーシップを意識して組織を率いてこられたのでしょうか。

 脇山 私が理想とするリーダーは、住友林業時代に秘書として仕えた、当時社長の矢野龍さん(現同社名誉顧問)です。そばで仕事をする中、「この人に会うと前向きになれる」「また頑張ろうと思える」と感じることが何度もありました。経営者は、言葉だけでなく、普段の表情や振る舞いも周囲に影響を与えます。だからこそ、自分自身が前向きでいることが大切ですし、その姿勢が周囲にも伝わっていきます。つまり、自らの姿勢で人を前向きにし、その力を組織全体の推進力に変えていくのが、リーダーの役割だと思います。

 山口 そうですね。リーダーの雰囲気は、やがて組織の空気となり、文化にもなっていきます。どのような空気をまとうかもまた、経営そのものと切り離せないのだと感じます。

 脇山 私自身、社長という立場に育ててもらった人間です。多くの経営者から、その在り方や生き方を学んできました。50代になった今、これまで得た経験を次の世代へ伝えることも、これからの自分の役割だと感じています。ありがたいことに、私の周りには、困っている人がいれば、理屈を超えて動ける九州の経営者仲間が数多くいます。今回の熊本地震でも、経営者同士がすぐに連携し、支援物資を病院や施設へ届けました。信頼を迷わず行動に変える。そんな仲間の存在が、私自身の大きな刺激になっています。

「利益の先に社員と地域の幸せがある」

 山口 九州には、人と人との信頼を、地域を動かす力に変えられる土壌があります。そこに、九州らしいリーダーシップの強さがあるのだと思います。
 最後に、家業のバトンを受け継いだ身として、地域みらいグループの未来をどのように描いていますか。

 脇山 売り上げや利益を伸ばすことは、会社を存続させる上で欠かせません。ただ、それ自体が経営の目的ではありません。利益の先に、社員やその家族、そして地域の幸せがある。この目的と手段の順序は決して間違えてはいけないと思っています。当然、会社は創業家だけのものではありません。社員や取引先、地域の方々など、多くの人の思いと人生が重なり合って成り立っています。だからこそ、大事なのは、次は誰が継ぐかということよりも、何を次の世代に残していくか、だと考えています。その上で私の役割は、次の世代が誇れる未来をつくること、それが“継いだ者”としての最大の使命だと思っています。

 山口 ありがとうございました。