継営者「創業者を勝ち投手にするのが私の使命」昭和グループ 代表 金子直幹氏
2026年08月20日
昭和グループといえば、福岡・佐賀・長崎において、自動車販売業を中核に、バスやタクシーなど幅広いモビリティ事業を展開する北部九州屈指の企業グループだ。同グループを率いる金子直幹代表は、オーナー家ならではの葛藤を乗り越え、自動車販売業一筋の道の先で「人」をど真ん中に据える経営にたどり着いた。採用と教育を根幹に据え、自らを「中継ぎ投手」と位置づけながら、創業者の志を次世代へとつなぐことを使命とする金子代表。その経営観に迫る。
「“家督”と“家業”は別ものでした」
山口 まずお聞きしたいのは、そもそも家業を継ごうという気持ちは、最初からお持ちでしたか。
金子 正直、全くありませんでした。ただ、父も長男で、私もその長男ですから、金子家の“家督”を継ぎ、家や墓を守ることは、自分の役目として受け入れていました。しかし、“家督”と“家業”は私の中ではまったく別のもので、家業を継ぐことなど考えたこともありませんでした。若い頃は、自分は何者として生きていくのか、その答えを探し続けていましたね。
山口 なるほど。“家督”と“家業”を別のものとして捉えられていた中で、その二つが結びつく転機はいつだったのでしょうか。
金子 学生時代、米国に留学して商業デザインを学んでいました。ただ、デザインは好きでしたが、それを自分の生業としていく姿がどうしても描けず、将来への答えが見えないまま悶々(もんもん)とした日々を過ごしていました。
そんな時、出張で父が米国を訪れることになり、初めて自分の進路について相談しました。すると父から「トヨタの仕事をしてみないか」と、思いもよらない提案を受けました。正直「自分にそんな選択肢があるのか」と驚きましたね。その提案をきっかけに、まずは、神奈川トヨタさんでお世話になることになりました。
山口 そこから、金子社長の自動車ディーラーのキャリアが始まるわけですね。
金子 今でもよく覚えています。当時、神奈川トヨタの社長とご面談させていただいた際、私はでっち奉公のつもりでしたので、油まみれになる覚悟で「まずは整備士として働かせてください」とお願いしました。すると社長から「資格もない人間に、お客さまの安全を預かる仕事は任せられない」と一喝されました。その言葉で、自分の認識の甘さを本当に恥じました。その上で「金子くん、営業をやってみなさい」と言っていただきました。思いもよらない言葉でしたので、うれしくて舞い上がったことをよく覚えています。
山口 初めて車を売った時のことは覚えていますか。
金子 もちろんです。1軒の八百屋さんだったのですが、最初は門前払いでした。ただ、何度も何度も足を運び、少しずつ信頼関係を築いていく中で、ある日「金子くん、車を買い替えたい」と声を掛けていただけたんです。本当にうれしかったですね。ちなみに、セルシオでした(笑い)。
この経験を通して1台を売る苦労、そして、信頼をいただける喜びを身をもって実感したことが、私の経営観の礎になっています。
山口 その現場の体温を知っている金子社長だからこそ、今の社風や組織文化にも表れているようにも感じます。
ちなみに、どのタイミングで、家業に戻ることになったのですか。
金子 私が神奈川トヨタに入社した1993年ごろは、バブル崩壊の影響で自動車販売が大きく落ち込んでいた時代でした。営業現場は厳しいノルマに追われ、重苦しい空気がいつも漂っていました。そんなある日、営業成績も良く、人望も厚かった先輩が、ふと「この世から車がなくなってしまえばいいのに」と漏らしたんです。その一言が私には大きな衝撃でした。
その出来事をきっかけに「福岡トヨタで働く社員は、今どんな思いで仕事をしているのだろうか」と、それまで遠い存在だった家業を、自分自身のこととして捉え始めました。ちょうどその頃、父が病を患い、周囲から帰郷を望む声もあったことから、家業に身を置くことを決断しました。
山口 実際にグループの中核企業である福岡トヨタに入社され、会社を内側からご覧になって、率直にどのような印象を持たれましたか。
金子 本当にひどい状況でした。業界全体が厳しい環境にあり、社員を何人リストラするかを議論する会議が開かれることもありました。しかし、その一方で、会議には重役向けの豪華な弁当が並ぶ。営業所長が厳しく追及される中、重役は昼近くに出勤しては、いつの間にか姿を消してしまう。そんな光景を目の当たりにし「誰も現場を見ていない。誰も社員一人一人と向き合えていない」。私は、その現実を痛感しました。
業績としても、当時の福岡トヨタは全国でもワースト3に入るいわゆる「お荷物会社」で、経営権をいつ剥奪されてもおかしくない、そんな瀬戸際の状況でした。
「たどり着いた答えが『採用』と『教育』」
山口 まさに崖っぷちとも言える状況だった中、まず最初に何から手を打たれたのでしょうか。
金子 何から手をつけてよいか分からず、もがき続ける中でたどり着いた答えが「採用」と「教育」でした。「人」の問題を解決しない限り、この会社に未来はないと考えたんです。そこからオーナー家の人間だからこそ、まずは現場を知る必要があると、店舗を何度も回り続けました。社員の声に耳を傾け、自分という人間を知ってもらうことに時間を費やしました。
また、98年ごろからの採用は、どんなに時間がかかっても自分で面接してきました。もちろんその中で失敗もあります。ただ、自分で選んでいれば自分に責任があります。私は、会社を変えるというのは、制度や数字だけを変えることではなく、そこにいる人の目の色を変えることだと思っています。その本気度が大事だと。
山口 金子社長の「人」を真ん中に据える経営観は、その経験を通して形作られていったわけですね。一方、オーナー企業のご長男としては、お父さまとの関係性も避けては通れないテーマかと思います。いかがでしたか。
金子 良くはなかったですね。父自身が、あまりにも、現場の実態を知らないということに私の中で常に怒りがありました。ただ、言い争いにすらならなかったです。
父はグループに君臨する存在で、相談を持ちかけても、私が話し始めた途端にテレビの音量を上げ、まったく聞いてもくれません。ただそれは「お前がそう思うなら、自分でやれ」という無言のメッセージだという風に勝手に受け止め、その瞬間から、立場はともかく自分が経営者である視座を持ってその責任を自ら引き受けていこうと心に誓いました。
山口 そうした経験を経て、低迷期にあった福岡トヨタを立て直し、昭和グループ全体の成長をけん引してこられました。会社の未来を切り拓(ひら)いてきた経営者だからこそお伺いします。金子社長にとって、経営者とはどのような役割なのでしょうか。
金子 私のように会社を受け継いだ経営者は、あえて言えば「中継ぎ投手」です。先発投手になれるのは、会社を興し、会社の理念や文化を築いた創業者しかいません。だからこそ、先発である創業者を“勝ち投手”にすることが、私の最大の使命だと思っています。
そのためには、昭和グループの創業者であり、祖父・金子道雄が、何を思い、何を志して事業を始めたのかを深く理解しなければなりません。創業者の理念や精神をグループ全体のDNAとして受け継ぎ、それを時代に即した形で実践していく。つまり、創業者の志を未来へつなぐことが、経営者として、また金子直幹として人生を賭けて向き合う最大のテーマです。
「言葉を“言霊”として発し続ける」
山口 その志を日々の経営や組織の行動へ落とし込んでいく上で、金子社長の考えるリーダーシップとはなんでしょうか。
金子 「率先垂範」に尽きると思っています。自ら先頭に立ち、苦しい時ほど責任者が前に立つ。その姿勢を貫くことが何よりも大切だと考えます。また、組織に命を吹き込むという意味では、私は、言葉を単なる掛け声ではなく“言霊”として発し続けることも大切にしています。課題に直面した時も「ピンチはチャンス」と繰り返し口にするのは、そのためです。最初はそう思えなくても、言葉を発し続けることで意識が変わり、行動が変わり、そして、組織の空気も変わっていく。リーダーには、そんな言葉の力を信じ、前向きな方向へ導く役割もあると思っています。
「自動車販売一筋の経験が今を支える」
山口 言葉は空気を変え、空気は文化をつくる。経営者の言葉が持つ本質を改めて感じます。
最後にお伺いします。自動車産業はいま、大きな転換期を迎えています。昭和グループとして、今後どのような未来を描いていますか。
金子 ご存知の通り、当グループの売上高の95%はトヨタ関連事業です。私自身、自動車販売業一筋でここまでやってきました。ただ、一つの仕事に向き合い続けてきた経験が今の自分を支えていますし、それが福岡トヨタ、ましてや昭和グループ全体の成長にもつながってきたとは思います。
一方で、トヨタ自動車自体が、自動車メーカーからモビリティカンパニーへと大きくかじを切っています。だからこそ、私たちもこれまでの延長線上だけで未来を考えていてはいけません。車を売ることだけではなく、バスやタクシーも含め、人の移動を支えながら、地域の暮らしに寄り添う。その中で、地域に本当に必要とされるモビリティのあり方をグループ全体で問い続け、「地域で一番愛されるモビリティカンパニーグループ」を目指していくことが、これからの私たちの使命だと考えています。
その上で、創業者が何を志し、私たちが地域とどのように歩んできたのか。その原点を忘れず、地域と真摯(しんし)に向き合い続けることができれば、昭和グループの未来は必ず次の世代へとつながっていくと信じています。
山口 ありがとうございました。