役割は航路の安全確保「筑後川デレーケ導流堤」
九州一の大河筑後川河口から約6.5キロにわたり、明治の土木技術の粋が川底に横たわっている。これが意外と世間に知られていない。干潮時にしか姿を現さないからそれが知られない一因なのか、なおさら知る人ぞ知るという存在になっているようだ。通称「筑後川デレーケ導流堤」と呼ばれている。築造されたのは明治23(1890)年。110余年を経たいまも、筑後川を行き来する船の安全確保を維持している。今回はその導流堤を訪れた。[加藤哲也]歴史的課題だった筑後川河川改修事業
筑後川は筑紫次郎の別名を持ち、昔から暴れ川で知られる。一夜川とも呼ばれているらしい。大雨が降ろうものなら、必ずといっていいほどはんらんし、流域周辺の家屋、水田などを一夜のうちに台なしにし、人命にも被害を及ぼしていたからだ。 暴れ川から人々の暮らしを守るために、近代河川整備が本格的に行われるようになったのは明治22(1889)年だそうだが、その年にも大洪水があった。それまでにも延べ183回の大水害があったと伝えられている。 九州の山塊、なかでも阿蘇外輪山、英彦山、朝倉山塊、耳納連山、背振山地などに降る雨は、支流を経てすべて筑後川に注いでいただけに、下流へいくに従って被害は甚大になっていた。一方で久留米、八女、柳川地域にまで広がる広大で肥沃な筑紫平野は、筑後川上流から押し流されてきた土砂によって造られているだけに、筑紫次郎は悪行ばかり重ねるとは一概にはいいにくい。 九州一の大河筑後川は、筑前、筑後、肥前、豊後の国境となっていたことから、古来、軍事上の要衝とされてきた。江戸時代には橋を架けることが禁じられ、代わりに舟運が発達し、それは昭和後期まで盛んであった。
舟運が盛んになったころの様子が『筑後上三郡取調手鑑』という史料に記されている。同書は寛政元(1789)年に編さんされたものだが、その年には久留米、福岡、佐賀、柳河各藩合わせて19カ所の渡し場が登録されている。渡船場はその後も増加を続け、最盛期には62カ所もあったらしい。 現在も筑後川河口付近の両岸には、諸富港(佐賀市諸富町)、若津港(大川市)がある。両港は中世から昭和初期まで物資輸送の拠点であった。諸富港は『日本地名大辞典41・佐賀県』によると、「古代・中世の当地は筑後川の河口港として発達していた」と記されているが築港年は明確でない。天正年間(1573〜92)との説はあるが、それも確かではない。一方の若津港は宝暦元(1751)年と明記されている。 藩の領域を超えて重要な拠点であった筑後川だけに、流域を治める領主たちにとっては、たびたび暴れられると領地は大打撃をこうむる。治水と利水をどうするか、この問題は最大の課題であった。 筑後川開発の歴史をふり返ってみると、開発が積極的に行われるようになったのは豊臣秀吉が全国統一を果たした安土桃山時代末期(1590年代)、筑後川の中州開拓からとなっている。1600年代からは利水、治水、堰の建設など土木事業が積極的に進められたが、数ある事業のなかでも「導流堤」は世界トップクラスの土木技術の粋といえる。筑後川河口域から約6.5キロにわたって川底に造られた導流堤は、筑後川の舟運を大いに活気づけたといっても過言でない。 オランダ土木技師ヨハネス・デレーケの不滅の技術
彼は河口付近にたまりやすい土砂に着眼し、それは川の流れを速めることで防ぐことができると確信した。川の流れを速めれば河口付近は土砂が堆積せず航路の安全が維持できる。その上舟運もスピードアップでき効率も上がる。それを実現するために、デレーケは川の真ん中に導流堤を築くことにした。 ヨハネス・デレーケが明治政府の要請により来日したのは明治6(1873)年であった。彼が日本を離れ帰国したのが同36(1903)年だから、都合30年間滞在したことになる。この間に彼が携わった土木構造物は約20にものぼる。代表的なものに、愛知県、岐阜県、三重県にまたがる木曽三川分流工事、大阪淀川の河川改修、大阪港築港、鳥取港築港、四日市港築港、細島港築港などが上げられる。なかでも木曽三川の分流工事は10年もの間心血を注ぎ成功させたとして、彼の名は後世まで語り継がれることになった。 デレーケを称して「砂防の父」と形容されることが多々ある。それは彼の信念にもとづいた考え方を称讃しているのだが、彼が起草した『木曽川下流概説書』には、「川を治めるにはまず山を治めるべし」と記されている。
これはどういうことかというと、水害多発の原因は、諸々の川に流出する土砂の堆積にあると説いているのだ。そしてその土砂の堆積は、河川上流域における樹木の伐採によって引き起こされると述べている。デレーケは、はんらんを繰り返す河川を治めるには、放水路や分流工事だけではだめだと説く。その上で、根元となる水源の山地における砂防や治山の工事を体系づけて報告書としてまとめたのである。 この「治山治水」の思想にもとづいて、彼はすべての河川工事には上流部の水源地砂防こそ重要だと強調し続けた。この信念をたたえて「砂防の父」、あるいは「近代砂防の祖」と、称せられているのである。 筑後川での砂防も、こうした彼ならではの思想に裏打ちされた傑作である。あらかじめ訪れる日は決めていた。その日は午後3時31分が干潮の時間である。導流堤は干潮にならないと姿を現さない。新田大橋から眺める導流堤は壮観である。川の真ん中にドーム状に石垣が積んである。それが河口まで延々と続いているのだ。聞けば基礎には松くいが打ってあるらしい。基礎のなかに木の枝をつめ込み、しゅろ縄で結び、その上にドーム状に石積みをしているそうだ。導流堤の上にコンクリート造りの棒が等間隔で立っているが、これは潮が満ちたときに導流堤の在りかを示す印だとか。 導流堤が出来てからの筑後川は、上流から押し出されてくる土砂が堆積することなく遠浅の河口に押し流され、水流をスムーズにしているという。今年で119年を迎えるが、いまなお何の支障もなく船舶の航行に大きく貢献しているとのことだった。地元の人々はこの導流堤を「ちんしょう(沈礁)」と呼んでいるそうだが、通称はヨハネス・デレーケの功績をたたえて名前が冠され、「筑後川デレーケ導流堤」と呼ばれている。 | ||||||
|
●ご意見・ご感想・情報提供はこちら (尚、無記名・連絡先のないメールは削除されます) | ||||||