2008年11月号196ページに掲載

〜国姓爺・鄭成功〜(12)
      河村 哲夫


明から清に移り変わろうとする
アジアの激動の時代
東アジアにおける大航海時代の到来と終焉
活発な対外貿易の時代から
日本の鎖国政策への転換
時代の転換期において華々しく活躍した
鄭成功を主人公に
ダイナミックに展開する歴史ドラマ


第四章 明朝の滅亡(一)

南京遊学

 1641年に青年鄭成功――鄭森は董氏と結婚し、翌年の10月2日には長男の錦――のちの鄭経が誕生した。
 1644年1月、21歳のとき、鄭森は父鄭芝龍に命じられて科挙試験をめざすため南京に遊学することになった。
 鄭森は妻の董氏と4歳になった長男に別れを告げ、鄭家の持ち船に乗って安平城を出発した。
 そのまま上海あたりまで北上し、長江をさかのぼっていった。
 南京は、長江中流域に位置している。
 南京は古い時代から栄えた町であり、「建業」あるいは「建康」とよばれ、三国時代の西暦211年に孫権が拠点とし、229年には呉の都となり、4世紀の東晋から宋・斉・梁・陳のいわゆる「南朝」の都とされた。これら六国は「六朝」とよばれ、独特の貴族文化・江南文化をうみだした。しかしながら、隋によって徹底的に破壊され、一時衰退したが、唐代末に呉・南 唐の首都として復興整備され、宋・元の時代にも地方首都として整備がおこなわれた。
 やがて明が建国され、初代洪武帝(朱元璋)によって首都とされ、「応天府」と称され、大規模な整備が進められた。
 第3代永楽帝のとき都が北京に移されたため、以後南京と呼称され、副都とされたものの、中国を代表する大都市としての偉容はいささかも衰えていない。
 はじめて南京の町を見た鄭森は、圧倒されるおもいがしたはずである。
 ここには国立大学に相当する「国子監」がある。「太学」ともよばれている。首都北京にも太学はあるが、南京の国士監は、名実ともに中国最高の太学であった。鄭森はこの南京太学に入学し、礼部尚書(文部大臣)の銭謙益の弟子となった。銭謙益は1582年生まれであるから、このとき63歳。字は受之といい、牧斎と号した。詩人、文章家として名を馳せ、この当時、南京太学の祭酒――すなわち校長も兼務していた。
 入門を許されたとき、鄭森が『剣門に学ぶ』『桃源澗』などの詩を献じると、銭謙益は、
 「声調はよく通り、世俗に染まらず、若くしてこれを得るは、まこと天才なり」
 と絶賛し、
 「君は国家を支える棟梁、大樹となるであろう」
 といって、鄭森に「大木」という号を贈ったという。
 応天府丞の瞿式耜もまた、鄭森の風貌をみて、
 「かならず大器となるであろう」
 と予言したという。
 鄭森は、青い儒服を身にまとい、南京の街中を闊歩した。国士監の学生は、あらゆる人々から崇敬の眼で迎えられる。父鄭芝龍が手配した広大な屋敷に居住し、莫大な送金を受けて、鄭森は優雅な学生生活を送りはじめた。
 安泰の世であったならば、鄭森は大木のようにまっすぐ伸びて、科挙試験に合格し、高級官僚の道を歩いたはずである。父鄭芝龍は、そのような道を期待していた。
 ただし、時代がそれを許さなかった。鄭森が南京に出てきたこの年に、北京の明王朝が崩壊したのである。

北京陥落

 李自成の軍勢は、歩兵万、騎兵40万の大軍にふくらんでいた。
 鄭森が南京に遊学したこの年の1月、李自成は大軍を率いて陝西省の西安に移動した。古くは長安と呼ばれ、周、秦、漢、隋、唐の都が置かれた歴史的な都市である。李自成もまた長安と改めた。
 2月、李自成はこの地において「大順国」の建国を宣言し、年号を「永昌」と定め、皇帝に就任した。農民を主体とする反乱軍が、公然と建国宣言をおこなったのである。
 崇禎帝は臣下を集めて対応を協議したが、意見がまとまらない。このころ、明軍の主力は北方の満州・女真族の侵入に備えて山海関方面にあり、北京の防備は手薄であった。このことを知った李自成は大軍を率いて黄河を渡り、山西省から北上して太原・代州を功略し、北京にむけて進攻したのである。
 3月18日、李自成軍は北京に入城し、紫禁城を包囲した。
 崇禎帝は死を覚悟し、太子、永王、定王の3人の皇子に平民の服を着せて脱出させ、翌日未明、2人の皇女をわが手にかけたあと、宦官らを伴って景山(煤山)に登り、
 「朕の屍は賊の分け裂くにまかせるが、わが百姓万民には1人たりとも傷つけることなかれ」
 と、白い布に遺言を残した。
 そののち崇禎帝は首をくくって自害した。
 ここに、洪武帝の建国以来276年つづいた明朝が滅びた。
 北京を制圧した李自成はあらためて皇位につき、紫禁城に居を構え、即位式の準備をおこない、官制を整え、銅銭を鋳造するなど、新王朝の創設のための作業に入った。
 明政府の多くの高官たちが土下座して李自成を迎え、猟官運動に走り回った。
 そのあさましさに嫌悪感を抱いた李自成は、配下の武将劉宗敏に身柄を預けて、残虐な拷問をおこなわせて死に至らしめ、その数は800人にものぼったという。

呉三桂

 このような情勢の前に、山海関に駐屯していた明軍の司令官呉三桂は徹底抗戦の構えを取ったため、李自成は大軍を率いて討伐にむかった。
 ここで呉三桂は、おもいきった手を打った。手持ちの兵ではとうてい勝ち目がないと考え、満州・女真族に支援を求めたのである。いわば、狼を駆除するのに、虎を招いた。
 呉三桂の要請に応じて、摂政王ドルゴンは大軍を動かし、4月日に楽々と山海関に入った。そこで呉三桂と会見したドルゴンは辮髪を要求した。
 頭頂を剃る辮髪は、満州・女真族の風習である。ドルゴンは、すべての中国人に対して辮髪をおこなわせる決意であった。
 ――辮髪をすれば降服した者とみなす。辮髪をしない者は反逆者として断固処刑する。
 ドルゴンの強硬な要求に対して、呉三桂はそれを受け入れるほかはなかった。
 出撃した呉三桂の軍は、李自成軍20万との戦闘を開始した。戦況を見守っていたドルゴンは、おりからの烈風雷鳴に乗じて、騎馬兵を主力とした怒涛の進撃を開始した。
 驚愕した李自成は、たちまち戦意喪失し、真っ先に遁走をくわだてた。
 北京まで逃げ帰った李自成は、呉三桂の家族三十余人を処刑させ、4月日に紫禁城の武英殿で即位式を挙行した。しかしながら、北京に接近しつつある呉三桂とドルゴンの連合軍と戦っても勝ち目はない。
 慌しく即位式を終えた李自成は、紫禁城にあった金銀を溶かして車に積み込み、紫禁城を焼き払い、翌30日、西安方面に逃れていった。
 李自成の天下は40日で終わり、摂政王ドルゴン率いる満州軍が、5月1日北京に無血入城を果たした。

南京の混乱

中世中国において紫禁城に居住することは権力者のステイタスだった
 李自成軍が北京に入城し、崇禎帝が自殺したとの衝撃のニュースが中国全土に伝播していった。
 南京にも4月に届いたが、
 ――李自成軍の流言ではないのか。
 と、世論も「疑信相半ば」という状態であった。
 しかしながら、4月中旬になると、北京からの逃亡者が続々と南京に到着し、北京が陥落し、崇禎帝が自死したことはまちがいないということがわかった。
 治安が一気に悪化した。治安が悪化すると悪党どもが元気を出す。デマも飛び交い、掠奪や暴動なども頻発するようになった。
 各地で自警団が組織されたが、自警団同士の武力闘争が勃発するなど、不穏な空気が高まってきた。
 首都北京において不測の事態が生じたときは、副都南京がその機能を補完しなければならない。南京の高官たちにとって、最も重要で緊急の課題は、後継皇帝の選任であった。北京とはまったく連絡が取れず、北京の皇族たちの動静を把握することができない。このため、南京に滞在している皇族のなかから選ぶしかなかった。
 当時、南京には福王由 と 王常芳の2人の皇族が滞在していた。
 福王は第14代万暦帝の孫にあたり、 王はその前の第13代隆慶帝の孫にあたる。
 血縁からいえば福王であるが、「貪欲、淫乱、酒乱、不孝、残虐」な性格であるため、皇帝になりうるはずのない人物であった。資質という点では 王のほうがはるかに優れている。鄭森の師である銭謙益らの良識派は当然のことながら路王を選ぶべしと主張したが、馬士英と阮大鉞らの有力者は福王を推した。暗愚な皇帝の下で、甘い汁を吸おうという魂胆であったろう。
 5月3日、福王はまず「監国」に就任した。国政を監督する職である。そして、崇禎帝の死を正式に発表した。
 このころの南京の人々にとって、最も大きな関心事は、危難に際しての北京の役人たちの行動であった。皇帝に忠誠を貫いたのか、裏切ったのか。北京にいた役人たちのリストが作成され、裏切り者と記された役人たちの屋敷が暴徒の標的となった。
 ――先祖代々にわたり皇室の厚恩を頂戴しながら裏切り、賊軍に投降するとは何ごとだ。
 財物を略奪され、祖先の位牌を叩き壊された家もあった。
 そのようななか、北京が満州・女真族によって占領されたという情報がもたらされ、さらに治安が悪化し、放火・殺人・強盗・略奪・報復・弱者凌辱・強姦などが横行した。
 ――満州・女真族が進撃してくるらしい。
 というような風説も流れ、南京から避難していく住民も少なくなかった。
 馬士英は、このような混乱に乗じて福王を皇帝に就任させることを決断した。
 5月15日、福王は皇帝の座につき、年号を「弘光」と改めた。
 即位した福王がまずやったのは、愚かにも歌劇団の女優や芸伎の選抜であった。
 馬士英らの取り巻きも、政敵の追い落としに血眼になった。
 7月から8月にかけて北京で裏切り行為を働いた役人たちを検挙し、また反乱勢力の魏忠献一派への追求をおこない、そのついでに福王政権に反対する南京の有力者たちを検挙・拘禁したのである。主従そろって、明朝の衰退に拍車をかけた。

鄭森の憂鬱

 このころ、鄭森は鬱々とした気持ちで、毎日のように南京の街中を歩きまわっていた。
 多忙をきわめる師の銭謙益とも疎遠になっていた。一度会ったとき、銭謙益が馬士英との政争について愚痴をこぼしたので、
 「一刀両断に斬り捨てればいいではありませんか」
 と進言したところ、銭謙益はおびえたような目で鄭森を見て、
 「野蛮な倭人のようなことを口にすべきではない」
 と答えたので、それきり会うこともなくなった。
 また、崇禎帝を悼む集会――「哭廟の儀式」に出席し、明政府を裏切った役人たちを激しく糾弾する名だたる学者たちの演説を聞いても、鄭森は違和感を覚えただけであった。
 ――従逆の官僚を処罰するよりも、満州・女真族が南下する前に体制を固めるほうが先決ではないのか。国が破滅に直面しているのに、なにを議論しているのだ。武装を強化し、国を治めて、異民族を掃討することこそ、国家の経略というものではないか。
 とはいえ、科挙をめざしている学生の身分では、何の発言力もない。
 鬱屈たる気分に襲われ、勉学にも集中できなくなっていた。
 父鄭芝龍は何度も福建に帰国するよう命じる手紙を送ってきたが、南京から離れる気はなかった。激動する歴史の現場から離れるつもりはなかった。やがて、父が屈強な男たちを派遣したため身の安全は確保されたが、鄭森は、
 ――しょせん、おのれは籠の中の鳥か。
 と、父に庇護されたわが身を嫌悪したほどである。
 屋敷にいてもなにもすることがなく、外に出ても行くあてもない。街中をうろつきまわることしかできなかった。
 父の帰国を催促する手紙だけが頻繁に届けられた。
 ――父の命令にどうして従わないのか。
 父は手紙のなかで、激しく恫喝するようになっていた。
 それでも、鄭森は日が暮れるまで南京の街中を歩きまわった。

満州・女真族の南進

 この年の5月1日、摂政王ドルゴン率いる満州軍は北京に入城を果たしたが、6歳のフリン――順治帝は、8月20日に瀋陽(盛京)を出発し、9月19日に北京に入った。そして、10月1日には即位の式をおこなった。中国皇帝に就任したことを、天下に知らしめたのである。
 そして、西方に逃げた李自成と四川省を拠点とする張献忠、それに南京に樹立された福王政権の殲滅を図るため、討伐遠征軍を編成した。
 李自成と張献忠に対する西征軍の総帥には英親王アジゲ(阿済格)が任命され、呉三桂らの漢人の武将が従った。アジゲは摂政王ドルゴンの実兄である。
 南京政権に対する南征軍の総帥にはドド(多鐸)が任命され、これまた孔有徳らの漢人の武将が従った。ドドは摂政王ドルゴンの実弟である。
 明政府の高官であった洪承疇は、北京新政権の兵部尚書――国防省として摂政王ドルゴンとともに北京にとどまり、作戦の総指揮を取った。
 北京を出発したドド軍は、11月には山東省を平定し、さらに南下をつづけた。
 めざすは南京である。

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