明治期九州の産業発展に尽力した「曽木発電所」
鹿児島県大口市にある曽木発電所は神秘的な廃虚である。夏の間だけダム湖から姿を現わし、秋になると再び沈む。このような現象が起きるようになったのは、昭和41(1966)年に鶴田ダムができてからである。曽木水力発電所ができたのは明治40(1907)年、野口遵(したがう)の手による。以後、化学工業の原動力となり、大口、水俣などの産業発展に大いに尽力したが、ダムができたことで約60年の活躍にピリオドを打つことになった。 [加藤哲也]野口遵の最初の事業
その地勢を生かし、古代には牛屎院という大荘園があったほどだが、逆にそれが仇となり、中世には牛屎氏、篠原氏、菱刈氏、相良氏、島津氏らが入り交じっての争奪戦が繰り広げられ、長く戦乱の時代が続いた。 下って薩摩藩のころは、大口筋(鹿児島城下―加治木―横川―大口)という領外への幹線街道筋の要衝であったため、はやくからひらけた土地柄でもあった。 ちなみにこの街道は後世薩摩街道と呼ばれるようになるが、長崎街道に接続していることから島津氏の江戸上りによく使われた。のちに西郷隆盛が蜂起して、明治政府へ抗議の進軍をしたのもこの街道であった。 古代より要衝の地とされていた大口に、牛尾金山(牛尾鉱山、大口金山とも呼ばれる)が最初に試掘されたのは亨保13(1728)年と『薩藩政要録』に記されている。
その牛尾金山に電力供給するため曽木電気会社が設立されたのは明治39(1906)年。翌年10月、曽木水力第一発電所が完成。同42年9月に第二発電所が完成したことで第一発電所は閉鎖された。現在遺構として残っているのは第二発電所の建造物である。 大口市内を流れる川内川には、東洋のナイアガラとも呼ばれる「曽木の滝」がある。高さ12メートル、幅200メートルの瀑布は水量も多く、水が落ちる眺めは壮観の一語に尽きる。曽木発電所はこの豊かな水流を原動力とし、牛尾鉱山に電気を供給していたのである。 発電所遺構は、「曽木の滝」の下流約1.5キロの地点北岸にある。さらにさかのぼること約8.5キロのところには鶴田ダムが。鶴田ダムは昭和40(1965)年にできたものだが、実はこのダムの完成によって曽木発電所は廃止され、水没することになった。 「曽木の滝」の水流と水力に目をつけたのは野口遵である。曽木電気を設立した人物だ。野口は明治6(1873)年金沢の貧しい士族の家に生まれたが、生後間もなく家族とともに東京へ移り住む。 東京師範学校付属小学校(現・筑波大学付属小学校)、東京府中学(現・都立日比谷高校)などを経て明治29(1896)年帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部電気工学科)を卒業。卒業後福島県郡山の電灯会社に就職しカーバイトの研究に没頭。その研究がのちに水俣での日本窒素肥料設立に役立つ。同31年ドイツシーメンス電気会社日本出張所に入社し、ヘルマンという世界的な電気技師に技術を学んだ野口は、水利権や特許権取得のノウハウまで身につけた。
3年後にシーメンスをやめた野口は長野県の安曇電気の開発に参画し、これを完成。その後も江ノ島電鉄、駿豆電軌などの立ち上げに参加し地方の開発に大きく貢献することになった。 大口との縁ができたのはこのころである。下谷銀行の千沢専助、郡山の電灯会社時代の相棒藤山常一ら飲み仲間と料亭で宴席ができた折、その中に鹿児島県出身の鉱山師永里勇八、日野辰治の顔もあった。彼らは「牛尾、大口、新牛尾の3鉱山に電気がほしい。幸いその近くに曽木の滝があるからそこに発電所を造ってくれないか」と話しを持ちかけた。これがきっかけだった。 大口、水俣の発展に寄与野口遵は明治39(1906)年1月12日、牛尾、大口、新牛尾への電力供給を目的に曽木電気株式会社を設立した。事業家野口の誕生でもあった。同40年10月には、第一発電所の800kw×2基のうち、第1期計画分の1基が稼動。
第一発電所は800kwを発電するようになったが、当時3鉱山合わせても、電力消費は200kw程度にしか過ぎなかった。近隣町村の消費分を含めても、800kwはあまりに多過ぎる。それを見越して野口はこの年熊本県葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会を設立。同41年工場が完成。第一発電所の余剰電力をこの工場にも送電するようになった。 電力とカーバイドの融合で電気化学工業の基盤を築いた野口は、その後、カーバイドを原料として石灰窒素を製造する特許を取得。曽木電気と日本カーバイド商会を合併し日本窒素肥料(現・チッソ)と社名を改める。こうして同社は大口、水俣地域の産業発展に大きく寄与することになったのだが、のちにこの会社が水俣病の元凶になるとは皮肉な話しだ。 話しが横道にそれたが、「曽木の滝」の水流は強烈なだけに、さらに下流でも発電所の建設が可能なことがわかった。そこで滝から約1.5キロ離れた地点に第二発電所を建設することにした。計画には、野口が3年間勤めたドイツ・シーメンス社製の15900kw発電機を4基設置となっている。同42年9月に1基が完成。ところが同月、洪水が発生し第一発電所が壊滅状態となった。そのありさまを見て、野口は復旧と予定していた第2期計画をあきらめ閉鎖した。第二発電所の竣工に全力が注がれ、翌年10月に残り3基の発電機設置が完成した。第二発電所の認可出力は1590kw×4台の6360kwとされているが、実際は67000kwの発電能力があったらしい。
曽木発電所遺構はこの第二発電所の建物外郭だけである。事務所や管理室があったと思われる3階建ての部分と、発電機が整然と並んで設置されていた2階建ての部分がかろうじて残っている。しかし1階部分の大半は地中に埋まっている。建物は総煉瓦造りだったそうだが、明治時代にその様式で造られたのは、鹿児島県でもこれだけとのこと。それだけ実業家・野口としての思い入れが強かったということだろう。 その野口遵は、のちにわが国で初めてアンモニアの工業化に成功。五ヶ瀬川の水力発電を利用し、延岡に旭化成の前身となる日本窒素肥料延岡工場を開設する。このチッソを中核とする日窒コンツェルンを一代で築いたことで「電気化学工業の父」といわれているが、大正から昭和にかけては朝鮮半島にもいくつもの大規模な水力発電所を建設。朝鮮の産業振興のみならず、教育振興にも力を入れ、昭和15(1940)年、私財3000万円(現在の価値では約300億円)を投じて朝鮮奨学会を設立したり、化学研究のために財団法人野口研究所を設立したことはつとに有名だ。 | |||||||
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