「元祖海弁」は博多港生まれ中坊公平さんが弁護士として東奔西走のころ、東京から京都の自宅へ帰るため利用するのは、いつも夜8時ころ出発する新幹線だった。中坊さんはきまって東京駅の八重洲口でシューマイ弁当を買い、席に着いて発車を待った。腹がすいているので早く食べたいのだが、止まっているとき食べたのでは普通の弁当になってしまう。走り出してから食べてこそ駅弁、とのこだわりから我慢し、ゴトンと列車が動きだしてからおもむろにフタを取り、ニンマリする。 この瞬間、この世でこれ以上の幸せはない、という気分に浸って、これで710円とは安いなぁ、と独りほほむのだった。中坊さんは京都人なので、有名な料亭「たん熊」や「なだ万」の料理のおいしさも知っている。しかし、どっちが幸せかといえば、シューマイ弁当に軍配を上げ、その幸せの程度は「5階建て程度ではなく20階建てぐらいの幸せですよ。この幸せは地位もお金も関係ありません。でも、本人にとってはものすごい幸せ」というのである。 中坊さんならずとも、乗り物に乗って食べる弁当のおいしさには格別なものがある。代表的なものは駅弁で、誕生したのは1885(明治18)年。宇都宮駅で販売したのが最初といわれ、竹の皮に包まれたにぎり飯とタクアンで、値段は5銭。米1升と同じだった。なお1877(明治10)年には大阪駅、神戸駅で売られていたという説もあって、元祖駅弁の決着は着いていない。 乗り物の中で食事といえば、最も古いのは船での飲食だろう。「食いねぇ、食いねぇ、江戸っ子だってネ、すし食いねぇ」で有名な、森の石松が船中ですしを振る舞ったのは、次郎長親分の代参で四国は讃岐の金毘羅さんに献刀して帰りのこと。大阪から京の伏見へ向かう30石船で、舞台は大阪の淀川だった。 昔の淀川といえば「くらわんか舟」。大阪の高槻柱本の船頭たちは、大阪夏の陣で徳川方の物資輸送に身をていした功績を認められ、家康から営業許可のお墨付きをもらった。彼らは、淀川に浮かべた小舟で飲食物を売る茶舟を始め、やがて対岸の枚方へと移り、徳川秀忠が真田の残党に襲われたとき窮地を救ったことから、地元の乱暴な言葉をそのまま使ってよいという「不作法御免」の特権を与えられた。身分の高い人にも「餅くらわんか」「酒くらわんか」「銭がないからようくらわんか」「しんきくさい顔さらさんと、はよ金使わんか」などとの呼びかけが許されて、淀川往来の名物となった。 この商いの容器に使われたのが「くらわんか茶わん」で、長崎の波佐見焼や三川内焼、尾張の砥部焼、摂津の古曽部焼など、大量に焼かれた粗末な厚手の染付け茶わんだった。代金は今の回転ずしのように皿数で計算したので、こっそり川に捨てる不届き者もいて、いまだに川底から見つかることがあり、コレクターや好事家に喜ばれている。 今日、乗り物弁当には数々あって、空弁は飛行機の中で食べる弁当。宇宙飛行士が宇宙船の中で食べる宇宙弁までは見当つくが、速弁となるとちょっと考えさせられる。これは高速道路のサービスエリアで売られているもので、「そくべん」なのか「はやべん」なのかは確認していないが、学生諸君には後者の名がなじみがあって、受けるかもしれない。そして新しいネーミングで誕生したのが「海弁」。これを「かいべん」などと呼んでは誤解を受けるので、正しく「うみべん」とお読みいただきたい。 さて、国内で初めて「海弁」の名乗りを上げたのは、韓国・釜山への海の玄関口、福岡市の博多港国際ターミナルで売られている「元祖海弁」。平成18年11月に発売開始したもので、840円の「母ちゃん弁当」と、博多名物の辛子明太子が添えられた1050円の「めんたい子付弁当」の2種類がある。 辛子明太子は、釜山で食べていたものを、「ふくや」創業者の川原俊夫さんが、日本人の口に合うように味付けして戦後売り出したもの。海弁「めんたい子付弁当」を食べながらの釜山行きは、韓国生まれで日本育ちの辛子明太子の、いわば里帰り。玄界灘の潮風に郷愁を感じさせてくれる味である。 | ||
|
●ご意見・ご感想・情報提供はこちら (尚、無記名・連絡先のないメールは削除されます) | ||