2008年2月号186ページに掲載

〜国姓爺・鄭成功〜(3)
      河村 哲夫

明から清に移り変わろうとする

アジアの激動の時代
東アジアにおける大航海時代の到来と終焉
活発な対外貿易の時代から
日本の鎖国政策への転換
このような時代の変革期において
華々しく活躍した鄭成功を主人公に
ダイナミックに展開する歴史ドラマ

第一章 大航海時代(三)

スペイン人の登場

 フランシスコ・ザビエルは1552年に死去し、王直は1559年に死去したが、この2人は大航海時代の第一波を日本にもたらした先駆者というべきであろう。
 この2人の来訪を契機に、ポルトガル・中国と日本との貿易は着実に拡大し、平戸をはじめ府内、阿久根、京泊、坊津、福田、口之津、志岐、五島、博多などにポルトガル船や中国船が来航するようになり、中国産の生糸や絹織物などと日本の銀と取引された。
 また、ザビエルがもたらしたキリスト教という新しい宗教も、日本のなかで着実に浸透していった。ザビエルたちの時代、信者の数は1000人ほどと考えられているが、30年後の天正10(1582)年ごろには15万人という驚異的な数に達したといわれる。
 とはいえ、ザビエルと王直が訪れたころの九州は、戦国争乱のまっただなかで、大友義鎮(宗麟)が豊後を拠点に豊前・筑前・筑後・日向方面への勢力拡大の足がかりを固めたばかりのころであり、薩摩の島津貴久も大隅・薩摩・日向のなかで攻めぎあいをつづけていた。
 のちに島津・大友と並んで九州3強の1人となる龍造寺隆信も、少弐氏の圧倒的な勢力の前に、わが身を守ることで手一杯のころであり、九州各地には、肥後の菊池氏や相良氏、松浦の松浦氏、肥前の有馬氏や大村氏、筑後の蒲池氏、中国地方の大内氏、陶氏、毛利氏などの武将たちが、生き残りを賭けた戦いを繰り広げていた。
 中央でも甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が宿命の対決をつづけ、織田信長も織田家の家督を継いだばかりのころであった。
 王直とザビエルが来訪したころの日本は、いわば無政府状態であったといえるかもしれない。

マゼラン

 ポルトガル人とは逆に、西回りの方向でアジアにむかったのは、スペイン人である。
 スペイン(Spain)とは英語表記による国名で、スペイン語ではイスパニア(Espana)と書く。
 彼らは1492年のコロンブスの大西洋横断を契機にアメリカ大陸への進出を企てる一方、1519年にマゼラン艦隊を送って太平洋横断を試みた。
 マゼラン艦隊は、南米大陸南端の海峡−マゼラン海峡を発見して穏やかな大海に抜け、マール・パシフィコ−すなわち、太平洋と名づけた。途中グァムを通過し、フィリピン諸島に到達することができた。「大マゼラン銀河」「小マゼラン銀河」は、マゼランが航海中に観測したことから名づけられたものである。
 マゼランたちは、サマール島南端のホモンホン島、レイテ島南端のリマサワ島などに上陸したのち、セブ島に上陸し、キリスト教に改宗した島の酋長ラジャ・フマボンを王に祭り上げようとしたが、これに反対するマクタン島の酋長ラプ・ラプらと戦闘がおこり、この戦いのなかでマゼランは戦死してしまった。
 スペイン人はマゼランによって発見されたこれらの島々を、スペイン国王フェリペ二世にちなんでフィリピナスとよんだ。これがフィリピンの由来である。
 スペイン人は、1565年セブ島に拠点をつくり、アメリカ大陸にむけて遠征隊を派遣してアメリカ・フィリピン間の往復航路を開拓した。

マニラ

フィリピンのマニラ大聖堂(提供=JTB九州)
 そして、1571年――すなわち、鉄砲が活躍した「長篠の戦い」の4年前にルソン島にマニラ市を建設し、アジアにおけるスペインの拠点とした。
 スペイン人の本格的なアジア進出は、ポルトガル人に数十年の遅れをとったものの、その後はポルトガルを凌駕するほどの勢いであった。
 スペインの商人たちは、メキシコから運んだ銀を船に満載して福建省の海澄にむかい、大量の絹製品や陶磁器と交換して持ち帰り、アメリカに運んで暴利を得た。
 中国産の商品は、ヨーロッパ産にくらべると1割以下の価格である。まさに飛ぶように売れた。
 交易を求めて、中国商人や日本商人らもマニラに集まるようになった。
 すでに述べたように、堺の商人呂宋助左衛門もこのような商人の1人であったが、神屋宗湛などの博多商人や薩摩商人たちも中国の生糸などを求めてマニラに来航し、やがて日本人町が形成されるようになった。

平戸の衰退

 このころ、平戸において異変が生じていた。
 平戸の領主松浦隆信は、表面上はイエズス会の布教活動に寛大な姿勢をしめしていたが、これはあくまで貿易の利を獲得するためのいわば便法であり、本心ではキリスト教に反感を持っていた。領主がそうであれば、家臣たちにもおのずから伝染する。領内における仏教徒とキリスト教徒との間の宗教的な対立が次第に高まってきた。
 そして、1561年(永禄四)八月に「宮の前事件」が勃発し、松浦氏とポルトガル人との間に決定的な亀裂が生じた。
 「宮の前事件」は、1人の日本人とポルトガル人とのカンガ(布)1枚の取引をめぐる些細な争いからはじまった。ポルトガル船の船長フェルナンドが船員らとともに応援にかけつけ騒ぎが大きくなり、騒ぎを静めるはずの松浦隆信の家臣らは、この時とばかりポルトガル人たちに襲いかかり、船長ほか名を殺害してしまったのである。
 しかも、松浦隆信はこの事件をうやむやのまま収拾しようとしたため、ポルトガル人たちは憤激し、平戸からの退去を叫びはじめた。
 ポルトガル貿易だけは死守したい松浦隆信は、豊後に滞在中のコメス・デ・トルレス神父を平戸に招き、教会の建設許可をあたえて友好関係の維持を図ろうとした。
 しかしながら、平戸にやってきたトルレス神父は平戸在住のポルトガル人の報告を受けるや態度を一変させ、松浦氏との断交を決意した。

大村純忠

 そのようなときに巧妙に立ち回ったのが、肥前大村の領主大村純忠である。
 大村純忠は肥前島原を拠点とする有馬晴純の次男であったが、有馬氏の強引な介入により大村家の養子となって家督を継いでいた。
 大村純忠は交渉相手のルイス・アルメイダに対して、横瀬浦(西彼杵郡西海町)を提供し、領内の布教を許可し、みずからの入信についても前向きに検討したいと申し出た。
 貿易の利を得るため、なりふり構わぬ姿勢をしめしたのである。
 この申し出に応じて、1562(永禄5)年6月、ポルトガル船は平戸を去り、横瀬浦に移った。大村純忠は教会の建設を許し、日本の貿易商人には10年間の免税を認め、みずからも家臣25名とともにキリスト教の信者になった。
 横瀬浦はポルトガル人によって「御助けの聖母の港」と名づけられ、日本各地から多くの商人が集まり、横瀬浦の繁栄がはじまった。
 ところが、1563(永禄6)年の「後藤貴明の反乱」によって、横瀬浦は一晩で壊滅してしまったのである。
 前述したように、大村純忠は大村家の養子として家督を継いでいたが、その際大村家の嫡子大村又八郎は廃嫡され、武雄(佐賀県武雄市)の領主後藤純明のもとに養子にだされ、名を後藤貴明と改めていた。
 このことに不満を持っていた大村家の重臣たちは、後藤貴明を擁立してこの年ついに決起したのである。平戸の松浦隆信が加担していたことはまちがいない。
 騒乱状態のなかで豊後の商人らが町に放火し、積荷を狙ってポルトガル船を襲撃したため、ポルトガル人たちは海に逃れた。
 強風にあおられた火は、横瀬浦の町のすべてを焼きつくした。
 その翌年、松浦隆信はポルトガル人に平戸への復帰を求めた。寄港地を失ったポルトガル人は、宣教師の滞在と教会の再建を条件としてそれを承諾し、貿易が再開されることになった。
 しかしながら、松浦隆信はもともと貿易の利にのみ心を奪われた「心悪しき人」(ルイス・フロイス)であった。後継者の松浦鎮信も、父にも増してキリスト教に反感を持っていた。
 ポルトガル人たちは、ふたたび平戸に嫌気がさしてきた。
 そのようなとき多良岳に逃れていた大村純忠が復帰し、領内を鎮圧したのち、新しい港として福田浦(長崎市福田本町・大浜町)の提供を申し出たのである。
 この申し出に応じて、ポルトガル人たちは平戸を捨てて福田浦に移った。平戸にもどって1年足らずのことであった。
 ポルトガルの宣教師たちは平戸に残って布教活動をつづけたものの、貿易港としての平戸はたちまち落ちぶれてしまった。
 遺恨を抱いた松浦隆信は福田港に停泊していたポルトガル船を襲撃したが、ポルトガル側の激しい反撃にあって敗北するなど、平戸とポルトガルの関係は断絶状態となった。
 なお、福田浦は水深が浅く、港としての機能にもともと欠点があったため、1570(元亀元)年、大村純忠はポルトガル人に新しい港として「深江の浦」−すなわち、長崎を提供した。
 これが、長崎の繁栄のはじまりである。

スペイン船の平戸来航

 ポルトガル人の退去によって、平戸は完全に廃れてしまった。
 そこへスペイン人が登場したのである。
 1584(天正12)年6月のことであった。
 はじめて日本にやってきたスペイン船でもあった。
 ポルトガル人が種子島に漂着して41年後のことであり、豊臣秀吉が全国制覇にむけて加速を強め、九州においては薩摩の島津氏が島原において肥前の龍造寺隆信を破って九州制覇にむけて大きく前進した時期であった。
 スペイン船が日本にやってきたのは、ひょんなことからである。
 スペイン船はルソンからマカオにむかっていたが、途中針路を誤り、東シナ海に出てしまった。そのときたまたまマカオから長崎にむかっていたポルトガル船を見つけ、それを追尾して北上しているうちに、平戸港に入り込んでしまったのである。スペイン船の船長はランデロといい、アウグスチニ派の宣教師2人も乗り合わせていた。
王直・ザビエルが活躍した16世紀アジア

 平戸の新領主となっていた松浦鎮信は、異国船の突然の来訪に飛び上がるようにして喜んだ。イスパニア人と聞いてもまったく驚かなかった。貿易の利をもたらす者であれば、どんな異国人でも構わなかった。船に乗って直々に出迎え、
 「わが領地にお迎えするはじめてのイスパニアの人なり」
 と、大声をあげて歓迎した。
 ランデロ船長以下の乗組員、2人の宣教師に宿舎をあたえ、2カ月間の平戸滞在中、大いにもてなした。
 帰国に際しては、フィリピン総督宛に書簡を託し、
 「貴下またはイスパニア国王の命に応じ、いかなることもなす用意があります。また、当地を訪れるイスパニアの人々を最大限歓迎いたします」
 と、貿易船の派遣を要請した。
 しかしながら、スペインとポルトガル両国の間には、ローマ教皇の仲裁によって盟約が交わされており、新しく発見した土地について、アフリカ沖から西側はスペインの支配下、東側はポルトガルの支配下とされ、フィリピンを除くアジア・日本はポルトガルの支配領域――縄張りとされていた。
 このような盟約があったため、スペイン総督府としては松浦鎮信の要請を受け入れることができない。
 そうとは知らない松浦鎮信は、1587(天正15)年に一隻の船をマニラに派遣してフィリピン総督に働きかけたが、もちろんスペイン側としてはそれに応じるはずもなかった。

秀吉の脅迫

 そうしているうちにこの年の三月末に豊臣秀吉が25万人の大軍を率いて九州に進攻し、わずか1カ月で九州を平定してしまった。
 秀吉は最大の敵対勢力であった島津氏に対してそのまま薩摩・大隅の支配権をあたえるなど、九州の在地勢力に対して寛大な態度で臨んだ。平戸の松浦鎮信をはじめ、肥前の大村純忠、島原の有馬晴信なども本領を安堵された。
 しかしながら、九州におけるキリスト教の勢力増大を目の当たりにし、警戒心を強めた秀吉は、6月19日博多において、「バテレン追放令」を発した。
 イエズス会の宣教師たちは20日以内に日本を出国しなければならなくなったが、この時期は季節風の状況が悪く、南方にむけて船出することができない。出国するための船もない。このため宣教師たちは退去期限の延長を要望し、当分の間平戸で待機することが許された。
 しばしの猶予を得た宣教師たちは秀吉の側近やキリシタン大名などに追放令の撤回を働きかけたが、秀吉は頑として譲らない。ところが秀吉の関心が朝鮮出兵に移ったため、追放令が凍結状態となった。
 秀吉にしてもポルトガル貿易まで放棄するつもりはなく、そういう意味では「バテレン追放令」そのものが中途半端に終わる宿命であったといえよう。
 とはいえ、追放令そのものが撤回されたわけではなく、宣教師たちの活動が著しく制限されることになった。
 1592(文禄元)年、秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵を命じたが、そのかたわらフィリピンのスペイン総督府に対して脅迫的な書簡を送り、
 −天命により日本国を統一し、朝鮮と琉球も朝貢している。大明国を征服するのも天命によるものである。
 と中国大陸への進出を予告し、かつスペインが入貢しなければ武力で討伐するつもりであると告げた。
 スペイン総督府にとっては、突然の脅迫的な投降勧告である。
 慎重に対応を検討したフィリピン総督府は、翌年特使を日本に派遣した。派遣先は、かつて接触したことのある平戸の松浦鎮信である。
 フィリピン総督特使の訪問を受けた松浦鎮信は、秀吉が滞在している呼子の名護屋城に案内したが、このことによって日本とスペインの関係が特に緊密になることはなかった。

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