門司港の栄枯盛衰を
見届けて95年
「旧門司税関」

歴史的建造物の多い門司地区においても、赤レンガ造りの建物は数少ない
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明治45(1912)年に建築された旧門司税関が、門司港レトロ地区で存在感を発揮している。当時門司港は、石炭の積み出しや、中国、韓国を往来する人々でたいそうな賑わいを見せていた。明治といえば、辰野金吾に代表されるレンガ造りの建築物が一世を風靡していた時代である。門司港レトロ地区には明治、大正期のレンガ積みの建築物が多いが、ほとんどは民間のものだ。旧門司税関のような官庁の建物としてのレンガ造りは、唯一これだけである。今回は、一時は解体の憂き目にあった九州遺産を訪れた。
明治の様式美を追求した赤レンガ館
福岡県
北九州市門司区東港町1-24
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明治、大正期の歴史的建造物群が立ち並び、北九州市の観光スポットとして人気を博している門司港レトロ地区。誕生したのは平成7(1995)年のことである。 同市で唯一成功した観光事業ともいわれ、訪れる観光客数は年間約400万人という。
その好調さを受けてさらに拍車をかけるためか、同市は昨年12月同地区に「門司港レトロ観光列車」を走らせることを表明した。
観光列車が走るのは、「かつて臨港鉄道と呼ばれた門司港〜和布刈公園間の約2キロ」(門司港レトロ室)とのこと。
この鉄道には以前貨物列車が走っていたそうだが、04年3月からは休止状態になっているらしい。したがって、そのまま放置されているレールを活用し、09年3月から11月の土・日・祝日と、春・夏休みの年間130日を見込んでいるそうだ。
同市が期待を寄せるレトロ地区だけに力の入れようも違うようだが、もしこのレトロ事業が成立しなかったならば、解体され消えゆく運命の建造物もあった。「旧門司税関」がそれだ。
明治45(1912)年に築造されたレンガ積み建物旧門司税関は、昭和10(1935) 年まで税関庁舎として使用され、翌年民間に払い下げられた。
建物外観は、「イギリス式2枚半積み」と呼ばれる特殊なレンガ積み工法で構成されている
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民間に移ってからは事務所ビルとして使われていたのだが、先の戦争で空襲にあい建物の一部を焼失。その後は倉庫に転用されるなど、建設当時の姿は見る影もなかった。
ついには解体寸前のところまでいったのだが、かろうじて踏みとどまれたのは、運輸省がこの建物を「様式美を追求した極めて優れた建造物」と認めたからだ。北九州市の門司港レトロ構想に、同省の歴史的港湾環境製造事業を活用し、建築当時の姿に復元し保存することが決定。それに伴い平成2(1990)年、旧門司税関は同市の所有となった。
同制度は平成元(1989)年に発足したものだが、旧門司税関は歴史的レンガ積建造物として、その制度に適用された最初の建物であった。
運輸省が認めた「様式美を追求した優れた建造物」とはどういうところを指すのだろうか。建築美術にうとい記者に、同市観光協会が救いの手を差し伸べてくれた。
同協会からいただいた解説書には、「中央部の玄関をはさんで左右対称にし、イギリス式のレンガ2枚半積で、当時としてはめずらしい鋼材を用いないレンガ積みのみの耐震構造である」と記されている。この建築構造の様式が明治という時代にはめずらしく、おそらくそれが高く評価されたのだろう。
また建物内部の改修にあたっては、「過去のイメージを継承しつつ、素材、空間の新旧を調和、対比させた現代工法を用いている。近代建築にはない天井の高さなど贅沢な空間をそのまま活かし、中央に吹き抜けを設けて上下に広がる視線を確保した。2階部分は外壁から独立した構造とし、煉瓦造りの壁体に力を伝えないようにしている」と記録している。
これは復元するにあたって建物内部の改修ポイントを記したものだが、内装は戦災にあいすでに撤去されている。完工当時の雰囲気を伝える資料も現存しないということで、内部の復元は非常に厳しい状態だった。そこで、今後の用途に適したまったく新しい空間として活用することに方向転換し、現在の休憩、あるいは展望できる施設に生まれ変わったようだ。
「こうした保存により、改修そのものに大きな歴史的意義が生じる」というのが観光協会のとらえ方である。
門司港の盛衰を見届けた九州遺産
手前角部と左奥の部分が復元された建物。右の建物は故・黒川紀章氏設計の高層マンション
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門司港は特定重要港湾に指定されている北九州港の一部を成す。関門海峡から周防灘に臨む九州の玄関口だ。
古代から海上交通の要として発展を重ねてきたが、江戸時代には小倉に隣接する大里が本州との渡航地になったため衰退し、明治初期までは漁業を営むだけの寒村に落ちぶれていた。
再び息を吹き返してきたのは明治22(1889)年ごろ。築港会社が設立され、港湾整備が開始されたからである。それに伴い、石炭をはじめとする5品目の特別輸出港にも指定。同24年には九州鉄道(現・鹿児島本線)が開通し、筑豊炭積み出しを主力とする、近代的港湾に生まれ変わった。
やがて日清戦争がぼっ発することで、同27年兵器製造所が、さらに翌年陸軍火薬庫が新設されたことで、軍事基地的性格も強まる。 同32(1899)年に一般開港に指定されてからは、貿易港として本格的に発展を遂げるようになる。同40年に第1種重要港湾に選定されたことで、対岸の山口県下関港と合併話しが持ち上がり、話しはとんとん拍子に進み関門港が実現。この時点で西日本最大の貿易港となった。
目を見張るほどの発展を続ける門司港に、門司税関が発足したのはこの2年後、明治42年のことである。当初は同26(1893)年、長崎税関門司出張所として開所したのだが、門司税関が発足したことを機に、同45(1912)年に建設された。
復元にあたって内部中央に吹き抜けを設けるなど、空間をぜいたくに活用されている
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構造的には、前述したように赤レンガ造り瓦ぶき2階建ての建築物である。建物を構成する工法は、「イギリス式2枚半積み」と呼ばれるレンガの積み方で、鋼材を用いない、当時としてはめずらしい技術のようだ。
復元改修にあたっては、現代のJTS規格に合わないひと回り大きめの、当時のレンガを10万枚特注したとのこと。ひび割れたレンガの補修は広島から専門の職人を呼び、原爆ドームの修復に用いられた特殊技術で再現したほどの力の入れようである。
設計した人物は咲壽栄一。明治24(1891)年東京帝国大学工科大学建築科を卒業した新進気鋭の設計家。ホトトギス派に所属する俳人でもあったらしく、そのあたりの感性が建築作品にもにじんでいるようだ。咲壽は卒業後すぐに大蔵省臨時建築部技師となったが、わずか30歳の若さで他界。早すぎる死であった。
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