感動がある。物語りがある。ふたたびの九州を見つける旅。 vol.20 鬼八伝説紀行(下)
宮崎県高千穂は天孫降臨の地である。ゆえに神話のふるさとといわれる。日向には神武東征の伝承話しもある。神話の多くは、大和建国に至るまでのサクセスストーリーである。その中には必ずといっていいほど、反乱者扱いされる地元土豪が登場する。日本統一を果たしたい中央勢力に抵抗する地域勢力だが、その扱いが鬼であったり土蜘蛛であったりするのはなぜだろうか。あまりに荒唐無稽に過ぎる。今回は鬼にされてしまった鬼八法師を追って高千穂を訪れた。高千穂の鬼伝説
日本各地には鬼伝説が多い。それら地域の伝承話しは、おそらく古代から伝えられているはずだ。 「鬼」の定義を『広辞苑』で調べてみると、いくつかの意義を唱えている。 「天つ神に対して地上などの悪神、邪神」という捉え方があれば、「伝説上の山男、巨人や異種族の者」という捉え方もある。神話に登場する鬼は、この定義に近い。 ほかにも「恐ろしい形をして人にたたりをする怪物」とか、おもしろいところでは「仏教の影響で、餓鬼、地獄の青鬼、赤鬼があり、美男美女に化け、音楽、双六、詩歌などにすぐれたものとして人間世界に現れる」などがある。 また、「非常に勇猛な人」とか、「ある事に精根を傾ける人」との解釈もあり、一方では「無慈悲な人」や「怪力で性質は荒い」などの意義もあり、定義にまとまりがない。つまり鬼とは、摩訶不思議な存在のようだ。果たして高千穂の鬼はどのような鬼なのか。 高千穂には、『古事記』や『日本書紀』が伝えるところの、同地の二上峰に天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が群臣を従えて高天原から降臨したという伝説、すなわち天孫降臨神話が伝わる。 天孫降臨は日本創世神話としていまに伝わるのだが、この神話から生まれた神武天皇が、一般には日本の初代天皇と解釈されている。しかし神武天皇が果たして人間であったかどうかは保証の限りではない。 『日本書紀』や『古事記』によると、日本創世神のイザナキノミコトは黄泉の国から帰ったとされている。そのミコトにはアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトの3人の子供がいる。アマテラスオオミカミには高天原を統治させたとあるし、孫の瓊々杵尊を高千穂に天降らせたと記している。 つまり瓊々杵尊は天から降りてきた神であり、人間ではないわけだ。そして神武天皇はこの瓊々杵尊のひ孫ということになっている。そうだとすると神武天皇は神のはずだが、『日本全史』には生きた時代を660〜585と特定している。紀元前に生き、75歳で他界したということになっているのだが、果たして…。
神武は東征を果たし天皇に即位したのちの名前だが、それまでの名はカムヤマトイワレヒコノミコトであった。 ミコトは人兄弟の末弟である。長男をイツセノミコト、次男はイナヒノミコト、三男がミケイリノミコト。俗に神武東征といわれるが、大和平定はカムヤマトイワレヒコノミコト1人で果たしたわけではない。4人の兄弟と臣下の軍勢を従えて東征を果たしたのである。 大和の諸族を平定した4人のうち三男のミケイリノミコト(以下、三毛入野命)だけは、東征後高千穂に戻ったといわれる。「鬼」扱いされている鬼八法師が現れるのはこのあたりからである。 『宮崎の神話伝承』には、「ミケイリヌは東征に参加されたが、高千穂の安寧を心配して途中から帰ってこられた。案の定、高千穂には鬼八という魔性の者がいて、ミケイリヌ等が東征に参加されると思いのままに振る舞っていた。 ミケイリヌはこのことを案じながら日向に帰着し、五ケ瀬川に沿って高千穂に入ろうとされた。鬼八は妖術を駆使して大雨を降らせ、ミケイリヌの帰郷を妨げた。この時、大雨が止んでやっと日が射してきた所を、後に日之影と呼ぶようになったとする。 また同町内で、ミケイリヌが汚れた袴を洗われた所を、後に袴谷と呼ぶようになったという地名伝説もある。ここにはミケイリヌが腰をおろされたという腰掛石伝説もある」と書かれている。 鬼八については、建武5(1338)年の『高千穂十社御縁起』にも、「…きわめておそろしき人にて候、なをきはちほうし三千王と申候かあひなれたてまつりて、つもれるとしハ九万三千六百さい、かのうのめの明神にあいなれて三千五百よねん、ちちのゆわやにましまし候。かの明神の御としは、四千八百七十よさいになり給う」と記されている。 三毛入野命VS鬼八法師
命はあららぎの里に宮居を構え定住したが、そのころ鬼八は、稲穂姫(高千穂祖母嶽明神の娘)の娘鵜目姫(うのめひめ=またの名を阿佐羅姫)を鬼ケ岩屋というところに監禁していた。 このくだりは『十社宮縁起』にも、「…其時二上山之峰乃本尓□治利千千巌窟止□、是有奈利。彼乃岩窟尓鬼八止云悪鬼攻渡里…其多波加利仁龍姫尓深久思□奈志、夜奈々々御橋成龍女尓通比、既尓世界□魔国尓瀬牟止ス」と記されていて、どうやら鬼八は千千巌窟(=鬼ケ岩屋)を鬼どもの巣窟にし、村里へ下りていっては乱暴のかぎりを尽くしていたようだ。 『十社宮縁起』という史料がいつごろ著されたのかはわからない。高千穂十社関連の史料はほかにも『十社大明神記』というのがあるが、こちらは文治5(1189)年に著されている。前述した『高千穂十社御縁起』が建武5(1338)年だから、『十社宮縁起』はおそらくその前後に著されたものと思える。 ちなみに高千穂神社は高千穂十社大明神ともいわれるのだが、文字通り祭神が十柱あるからだ。三毛入野命、鵜目姫命、御子太郎命、二郎命、三郎命、畝見姫命、照野命、大戸命、霊社命、浅良部命の十柱である。 三毛入野命は、高千穂を治めた最初の領主であり、鵜目姫命はその妻である。村人を困らせる鬼八を退治しようと立ち上がったのが三毛入野命だが、この時は鵜目姫命はまだ妻になっていない。 鬼八征伐の模様を、『十社宮縁起』は「…二上乃峰奈留千々加巌窟奈留悪鬼退治乃御出陣尓□、丹部左大臣富高右大臣両臣下家ヲ先止志天、以上其數四十五人乃人々猿田彦命御導尓□屋悪鬼退治乃御出陣…」と記している。『宮崎の神話伝承』は「田部左大臣、富高右大臣ら四十四人の家臣を引き連れて、鬼八退治に向かわれた」と書いているものの、記録としては大差ない。 三毛入野命が鬼八を退治するのは、鬼八が鵜目姫命を監禁したことが原因とされているが、『阿蘇神社』には、「高千穂の鬼八は二上山(二神山)の乳が岩屋に住む、在来の勢力の代表者である。鬼八は中央勢力に抵抗して征服されるが、名前の鬼はまつろわぬ者(従わない者)をさす象徴的なよび名である。中央勢力は高千穂大明神、阿蘇大明神、八幡大菩薩と強力で、鬼八は妻も奪われた」と書いている。
同書の著者は阿蘇惟之氏。阿蘇神社91代宮司である。鬼八を在来の勢力の代表者であるとか、名前の鬼はまつろわぬ者をさすとか、鬼八は妻も奪われたといった記録は、『十社大明神記』『高千穂十社御縁起』『十社宮縁起』に書かれている内容と明らかに違う。高千穂の3書は、鬼八ははじめから悪者扱いだが、『阿蘇神社』では逆に鬼八のほうが犠牲者になっている。 どちらの記載が正しいという前に、神話という伝承の書は日本建国から統一におけるプロセスの書である。したがって、内容的には中央勢力VS地域実力者の対決構図であっても、常に強者は中央であり弱者は地方。そして理由はどうあれ、官軍は中央で賊軍は地方である。中央が書いた記録であれば、中央の都合で書かれるのは当然のことだ。 地方豪族であったかもしれない鬼八は「鬼」扱いされ悪者に仕立てられてしまっている。鬼八には別名金八、金八法師、あるいは鬼八法師という名も使われることがある。高千穂の3書も、『阿蘇神社』にも、鬼八は「ちちがいわや」という岩窟に住んでいたという点では共通している。 しかし、法師という名がどうしてついているのだろうか。その名は、一般的には山岳修験者などに使われることが多い。それなら鬼八は山岳を拠点とする修業僧のリーダーだったかもしれないのだ。もうひとつ「走健(はしりたける)」という名もある。字体からすると、いかにも健脚で走ることに秀でた人にふさわしい名である。山岳僧もしかりだ。ところがこの走健は大蜘蛛の扱いにされている。鬼にされたり、大蜘蛛にされたりと、鬼八が常にいまわしい存在であるのは、神話が中央政権によって作られたからではないか。 地域とともに息づく神話継承
三毛入野命に征伐された鬼八は、身体をいくつかに切り刻まれ数カ所に埋められた。埋められた場所にはそれぞれ鬼八塚が建っているが、どういうわけか鬼八の死後、高千穂地方にはたびたび霜が降るようになり農作物に被害を及ぼすようになったという。地域の人々は、鬼八のたたりと信じて疑わなかった。 この伝承話は阿蘇地方にもあった。阿蘇では鬼八の霊を慰めるために「お火焚き神事」が執り行われているが、高千穂では「猪掛祭」がそれに等しい。 毎年12月3日に行われるこの祭は、当初鬼八の首塚に乙女を生け贄として捧げていたらしい。しかし戦国時代になって、当時の領主がそれでは乙女があまりに可哀想ということで、代わりに猪が捧げられるようになったという。 現在は高千穂神社で行われている。熊本歴史学研究会が発行している『史叢』(99年7月号)の中で、佐藤征子氏は「釜祓いをして新穀を一番釜と二番釜で炊き、木地椀に盛りつけて献饌した後、神前に猪を丸ごと供えて神事が行われる」と書いている。 地域の里人を困らせた鬼八だが、神として祭られていることも確かである。いまでは神楽も奉納され、五穀豊穰を願う祝詞も奏上されている。 | |||||||
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