2007年10月号142ページに掲載

豊予海峡の守護
「丹賀砲塔砲台と鶴見崎要塞群」



いまでは鶴見半島のランドマークとなっている丹賀砲塔台跡
 巡洋艦・伊吹の艦載砲を据え付けた丹賀砲台は、一発の弾丸も敵艦に向かって発射されることなく木っ端みじんに吹き飛んだ。あとに残ったのは16名の遺体だけだったと伝えられる。昭和2(1927)年の出来事であった。たった7発の試射をしただけで砲腔爆発を起こし、砲台はもとより、火薬庫、斜坑、周辺の兵舎や植え込みまで根こそぎ破壊してしまった悲運の砲台。以来60数年野ざらしとなった歴史的建造物「丹賀砲塔台と鶴見崎要塞群」を今回は訪れた。

巡洋戦艦「伊吹」の艦載砲を丹賀要塞砲に

大分県
佐伯市鶴見
  佐伯湾は凪いでいた。佐伯市街地で国道217号に別れを告げ、県道604号へ。梶寄浦佐伯線と標木には記されている。
 左に佐伯湾を眺めながら、鶴見町を走り抜ける。この沿線の地形は激しく入り組んだリアス式海岸となっており、そのせいか集落の名前は浦が多い。丹賀に着くまで吹浦、地松浦、沖松浦、有明浦、羽出浦、中越浦などを通過した。砲台のある丹賀も丹賀浦である。
 江戸時代には俗に佐伯九十九浦といわれたほどで、佐伯藩も浦支配には特別な配慮をしていた。またここは佐伯湾の入口にあたることから、藩の海防上重要な地点でもあった。その特質は明治になっても軍事面で重要な役割を果たしたことをみてもわかる。
 日清・日露の戦いでは半島先端部の鶴見崎に呉鎮守府所管の望楼が設置され、戦時色が濃くなった昭和8(1933)年には丹賀浦に砲台が設置された。
 今回はその丹賀の砲台跡と鶴見崎の要塞群を訪ねて来た。このような軍事要塞跡は野ざらしになっているのが普通だが、ここ丹賀砲台跡は「ミュージアムパーク丹賀」という公園になっていて、きれいに整備してある。ちょっと意外な感じがした。
45口径30センチ カノン砲、射程距離約26キロといわれた丹賀の砲塔を艦載していたころの巡洋戦艦「伊吹」

 丹賀砲台ができたのは昭和6(1931)年9月。射程距離約26キロという、45口径の30センチカノン砲2門を備えた砲塔を配備したのが同8年。この大砲は、巡洋艦「伊吹」が搭載していたものだ。「伊吹」は明治40年呉海軍工廠で進水し、第一次世界大戦ではインド洋に進撃。のちには英国艦隊と協力して、オーストラリア軍の輸送護衛にあたった戦艦である。それほど重要な役割を果たしてきた戦艦の大砲をなぜ丹賀に据えたのか。別に「伊吹」が老朽化して使いものにならなくなったわけではなかった。
 砲台設置のきっかけは、大正10(1921)年に締結されたワシントン条約である。この条約は日米英の軍艦保有率を3対5対5とする、日本にはきわめて不利な取り決めとなった。その協定によって日本海軍は軍艦の削減を余儀なくされる。建造中だった主力戦艦はすべて廃棄処分に、主だった巡洋艦は航空母艦に改造するという具合であった。
西部軍情報隊観測所跡。鶴見崎には陸軍の砲台と、海軍の観測隊施設が混在していた

 その上日露戦争以降の旧式戦艦、巡洋艦も大量廃棄処分するわけだから、あらゆる艦体はスクラップ。日本海軍はいきおい巨砲のくず山を抱えることになった。
 そこに目をつけたのが陸軍である。大正8(1919)年に要塞再整理要領の裁可は下ったものの、陸軍は外敵の36センチ砲塔載戦艦に対抗するための要塞砲開発に苦慮していた。それだけに海軍の巨砲のくず山はまさに渡りに舟であった。
 早速艦載砲を陸揚げし、要塞砲に使うプロジェクトが始まった。計画では、東京湾4砲台、対馬海峡6砲台、津軽海峡、豊予海峡がそれぞれ1砲台となっていた。 
 大正15(1926)年、佐賀関に陸軍豊予要塞司令部が新設され、その翌年(昭和2年)から建設に着手。築城工事は昭和6年に竣工した。それから11年後の昭和17(1942)年、時あたかも太平洋戦争開戦直後のことであった。丹賀砲台は何の前触れもなくいきなり爆発、16名の人命と周辺を廃虚にしてしまった。

一度も威力を発揮することなく爆発炎上

(右)丹賀砲台爆発後、突貫工事で急遽創られた鶴見崎砲台跡と、(左)豊後水道の監視を目的として創られた望楼

 当時を知る地元の古老は、「真珠湾攻撃から約1カ月が過ぎたころだった。世間には戦勝ムードが漂っていただけに、事故は原因も特定されず封印された」と述懐している。また別の古老は、「事故直後、着剣した憲兵がすぐさま村の出入り口に並び、村民は外出を禁じられ、箝口令が敷かれた」と当時を振り返っている。
 悪夢の日は同年1月11日であった。その時の模様は次のように記録されている。
 「冬晴れの正午過ぎ、鶴見崎灯台の西約3キロにある砲台が、突然大音響とともに吹き飛んだ。右砲身は折れ、砲台は大破し、約200メートル離れた東中浦村の集落には砕けた鉄片などが降った。砲塔内の兵士はもちろん、砲台から数十メートル離れた場所にいた兵士らも吹き飛び、軍人軍属16人が死亡、28人が重軽傷を負った。岬一帯には人の体の一部が飛び散っていた」
 「砲台には強い季節風が吹いていた。午前10時ごろ訓練開始。砲弾全8発のうち7発が発射された後、しばらく静寂が続いた。正午すぎ、ドドーンという爆発音とともに、空から焼けた鉄片が村に降り注いだ」
 「砲台に入ると右手に白いテントがあった。中のござの上には16人の遺体がむき出しのまま横たわっていた。黒くこげ、手足が吹き飛んだり、頭が割れた人、肉が落ち魚のようにろっ骨が見える人(後略)」
 事故のすさまじさと酷たらしさが伝わってくる記録だ。しかし軍部は、すぐさま丹賀砲台の代替施設として半島先端の鶴見崎に4つの砲座を構築。それぞれの砲座に45式15センチカノン砲を装備した。わずか6カ月という突貫工事だったらしい。しかし鶴見崎の砲台も役割を果たすことなく終戦を迎えている。
 「昭和20(1945)年8月の終戦とともに装備は処分され、砲身などは海中に投棄された。永らく放置された地上の工作物の多くは荒廃しました」
 暗くて悲惨な歴史から目をそむけるのではなく、鶴見町は逆にこの歴史を観光振興の起爆剤とした。昭和59(1984)年に作成された観光振興計画書には、
 「この地区に設置され事故を発生させた事実は、砲台跡が暗い戦争のイメージと結びついている。戦争の悲惨さは繰り返すべきではないが、戦争の実態は認識されねばならない。すなわち無理に軍事施設を誇示すべきでもないし、逆にまったくこの問題から回避すべきでもない。この地に砲台があり、豊後水道が作戦上も防衛上も重要な拠点のひとつで、この砲台が創られたという事実を呈示できればよいと思われる」
 と記されている。この理念のもとに創られたのが「ミュージアムパーク丹賀」である。計画書に書かれている基本構想は、
 「大きな野外博物館の性格を持たせ、自然的、歴史的環境の保全につとめるとともに、豊後水道の自然史と海事を中心とした歴史と文化を展示する屋内、屋外の施設群を整備すること」となっている。その構想は、いままさに実を結んでいた。

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