2006年11月号82ページに掲載

まえにすると和やかに

お菓子

くつろぎのひととき

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 「外来菓子文化はまず九州に上陸し、九州から全国へ向けて発信されていった」。例年弊誌11号でのお菓子特集。今回は主に江戸期の食文化をテーマにして研究を続けてきた江後迪子さんに、特に九州に視点を据えて外来菓子を中心に語っていただいた。

九州は西欧との交流先進地
それ以前から中国とも

●江後迪子(えご・みちこ)さん
 1934年兵庫県生まれ。74年実践女子大学大学院修士課程修了。広島文教女子大短大、別府大短大教授を経て、現在主に江戸期の食文化の研究を続ける。「和菓子のたのしみ方」(新潮社・共著)はじめ著書も多数。
 天文12(1543)年、ポルトガル船が来着したのは種子島である。地理的にみて外国船の通り道であった九州は、その後戦国大名大村純忠がポルトガル船のために長崎を開港したり、宣教師ザビエルが鹿児島に上陸したり、豊後の大友宗麟がポルトガルとの貿易を行って府内(現大分市)を西洋文化の中心地としたりしていた。
 当時、ポルトガル船が来訪した九州の港は鹿児島県では山川、坊津、阿久根、根占、京泊、宮崎県では外浦、細島、大分県では府内、日出、佐賀関、福岡県では博多、長崎県では平戸など多くの地が確認されている。
 したがって、そのころの九州は西欧との交流の先進地であった。とくに、ポルトガル船の来着以降、寛永16(1639)年の来航禁止までの約95年の間、宣教師たちは市中の人々の中で生活していたため、教育や医療、美術や衣食の風習など多くの西欧の文化が取り入れられた。同時に茶の湯などの日本文化に対する理解もなされたといわれている。
 また、中国と近いこともあって、西欧との交流以前から唐、宗、明などの国々との往来も行われ、わが国文化に大きな影響を及ぼしていることは周知の通りである。
 江戸時代になると、キリスト教禁圧を主たる目的として鎖国政策をとった幕府は、スペイン・ポルトガルの来航を禁じ、オランダ・中国との貿易は唯一長崎と定めていた。
 このような環境にあった九州は、菓子についても他の地域とは異なった素地があったと考えられる。今回は、臼杵藩稲葉家と鹿児島藩島津家の資料を中心に、九州地域の江戸時代の菓子について、記録の面から見てみたい。

かすていらやぼうろが伝わり
日本人は卵を食べるように

 このころの九州の菓子の特徴として、九州以外の日記などの記録と比較し、南蛮菓子の出現数が多い点が挙げられるので、まずは、南蛮菓子についてその主なものを見ていきたい。
 「あるへい糖」は鹿児島、大分の文献では1600年代末に見られる。中でも、鹿児島の『御献立留』における献立では132例中、10例とかなり多く用いられている。あるへい糖はあめ菓子の一種で、このあめに色をつけたり、2色、3色と合わせたりして、筋のあるあめ菓子をつくる。紅白にしてめがね状にしたものは千代結びといい、長崎や佐賀では結婚式の引き出物で使ったりしている。
 「かすていら」も同様に1600年代末に見られる。鹿児島大学玉里文庫所蔵の同年代の書『料理塩梅集』には、かすていらの製法についての最も古いとされる記録が残っている。その概略は「鍋にごま油を引いた美濃紙を敷き、たねを流して火のしで焼き、上下を返して焼く」とあり、江戸初期には鹿児島において、かすていらが作られていた。
 「こんぺい糖」は熊本、長崎における記録が早い。こんぺい糖といえばその角が特徴だが、日本で角のあるこんぺい糖が作られるようになったのは江戸時代の長崎で、井原西鶴の『日本永代蔵』(1688)に、長崎の町人が角のあるこんぺい糖の製法を考案して、一躍成り金になった話がある。
 「ぼうる」については、花ぼうるとして記されている方が多く、鹿児島において1600年代末に、その後大分に、また福岡においては文政年間の『加瀬家記録』に見られる。沖縄には、現在でも花ぼうるがあり、この形はポルトガルのライバスという焼き菓子によく似ている。したがってこのぼうるは南蛮の国々から伝えられ、沖縄・鹿児島を経て広まったように思える。
 日本人は、南蛮菓子が伝わる以前は卵を食べる習慣がなかったが、かすていらやぼうろが伝わってから、卵を食べるようになったといわれている。

南蛮菓子、唐菓子、郷土菓子が
それぞれに発達

 次に中国菓子を少し挙げると、「ういろう餅」は、中国から薬として伝えられた透頂香の別名が、後に菓子となったものであるが、『食物知新』(1726)には、応安年中(1368〜73)台州の人陳氏が筑前の博多に伝えたとある。現在では、山口や名古屋のういろうが名高いけれども、唐菓子であるういろうも、九州から各地へ広まったと考えられる。
 「一口香」は、現在長崎銘菓のひとつとなっているが、福岡の文政年間の『加瀬家記録』には、一口香が4回と花ぼうるやらくがん、巻せんべいと同回数見られ、当時福岡においてかなり普及していたと考えられる。天保12(1841)年の『尾張名所図会』に愛知県常滑市大野町の産物として挙げられ、現在でも作られているが、福岡で多出していることからすれば、これも九州から愛知へ広まったものと考えられる。
 九州の郷土菓子もいくつか見てみると、「かるかん」は元禄12(1699)年鹿児島藩第20代島津綱貴公の50歳の祝いに用いられたのが最初で、『御献立留』には正徳6(1716)年の若君誕生祝いに1回見られる。その後の26代島津斉宣公の記録(1789)には増えているので、このころから鹿児島の菓子として定着したと考えられる。
 熊本の「かせいた」は、熊本藩の献上品として認められるが、臼杵藩において延宝2(1674)年をはじめ出現が多い。三代藩主と熊本藩との間で姻戚関係があったからで、熊本との行き来が多く、何回か熊本より贈られている。このかせいたの原料のまるめろはポルトガルから伝えられた。
 江戸時代の九州地域の菓子は、南蛮交易の影響による南蛮菓子、中国や琉球の影響による唐菓子、そして地域に根差した郷土菓子がそれぞれに発達していた。そうした中で、外来菓子文化はまず九州に上陸し、九州から全国へ向けて発信されていったように思われる。

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