2004年12月号166ページに掲載

秋月城城主 
黒田 長興



 黒田長興は長政の3男。兄弟の中では最も父に愛されていた。幼いころから素行の悪い長男忠之に代わって、福岡藩2代藩主の座を長興に相続させようとしたほど。重臣たちの反対があってそれは実現しなかったが、夜須郡、嘉麻郡など5万石を分地された。その後長興は3代将軍家光から5万石の朱印状を与えられ、福岡藩の支藩でありながら秋月藩は独立支藩となった。

秋月藩と黒田長興

 秋月は筑前の小京都と呼ばれる。すぐ背後に宝満山、古処山、馬見山、釈迦岳などの筑紫山系をひかえ、そのふもとにひっそりとたたずむ城下町だからだ。町の中央を野鳥川が流れているのも京都の地形に似ている。
 福岡からは大分道甘木ICで降り、甘木市街地から北へ約7キロのあたり。甘木は昔は福岡と日田を結ぶ日田往還(旧日田街道)の要衝の地であった。そこから枝別れして、山越えで山田市へ抜ける秋月街道もあった。
 城下町秋月が観光名所になってから久しい。福岡藩の支藩で、わずか5万石の小さな藩ではあるが、いまでも春と秋には観光客でたいそうなにぎわいを見せるという。春は桜、秋は紅葉である。
 特に女性に人気だそうだが、そのわけを「秋月という、どこかロマンチックな名前に魅かれるのでは」と、甘木市文化課内田俊和係長は分析する。観光客が集中するのは、なかでも瓦坂、長屋門、黒門と続く県指定史跡秋月城跡と、同じく県指定史跡になっている石田家住宅など伝統的建造物群が並ぶ中町界隈である。
 秋月氏、黒田氏が栄華を誇った約800年の歴史は、いまも町のあちこちで面影をしのぶことができる。町の形成は実にわかりやすい。野鳥川を挟んで南側に藩主の館をはじめ上級家臣団の屋敷。北側に町屋を配置。周囲の山裾に寺社や下級家臣の屋敷を配備している。城下の町割と屋敷割は東西南北に通され、中央の札の辻で交わる2本の道筋を基軸とする。城下への出入り口には番所が置かれ、武家地も町屋も枡形をしている。いまもほとんど変わることのない町の縄張りをしたのは黒田長興である。
 長興が秋月に入ったのは寛永元(1624)年。その前年に秋月藩は成立している。黒田長政が筑前に入封したのは慶長5(1600)年だが、当初は長政の叔父直之に与えられていた。長興がすぐに秋月を与えられなかったのは、福岡本藩を相続させたい考えがあったからだろうか。黒田直之は慶長14(1609)年に亡くなるのだが、その後はしばらく番士のみが置かれていたとのこと。 
 長興は長政の3男である。にもかかわらず、長政には長男の忠之ではなく長興に継がせる思惑があったようだ。 「忠之、長政ノ在世中ヨリ不行跡多ク」がその理由だが、重臣たちの強硬な反対もあって、2代藩主の座はようやく忠之相続で落着したという経緯がある。(ちなみに忠之は、のちに重臣栗山大膳と対立し、後世まで汚点を残す「黒田騒動」も引き起こしている。この騒動は「御伽譚博多新織」という江戸歌舞伎でもネタにされている)
 2代藩主になったものの、忠之はおもしろくない。長政の遺言だからしかたなく秋月5万石を分地したが、家臣の地位に置いておきたかった忠之は秋月藩の成立を認めたくない。そのため長興の将軍拝謁を妨害。しかし熊本藩の援助があって長興の将軍お目通りは叶い、家光から5万石の朱印状を与えられた。
 こうして秋月藩は福岡藩の支藩でありながら、幕府から直接朱印状をもらった独立藩となったのである。その後の秋月藩は、藩成立までの対立関係がもとで本藩とは絶縁状態にあった。不和は忠之亡きあと、3代光之のとき和睦がなったが、その後も本藩とは違った独自性を持ち続けた。

伝統建造物群として未来へ

 「秋月は町全体が伝統的建造物群保存地区に指定されています。一定区画だけではなく、町全体が保存地区に指定されているのは、全国でも秋月だけです」(内田係長)とのこと。指定されたのは平成10年4月。
 保存地区概要パンフレットをいただいた。観音開きになっているそれを開くと、下から古地図が表れた。聞けば文政年間(文政2年=1819)のものだそうな。閉じると現代の地勢図空撮写真が古地図に重なるようになっている。
 ほぼ200年前の町がいまとほとんど変わらないのである。指定された伝統的建造物も町域に満遍なく散っている。これでは町全体を指定せざるをえないだろう。 
 黒田長興の手によっていまの秋月の基盤が整備されたことになるが、黒田氏入部以前は大宰大監原田種成の子種雄の支配地であった。鎌倉時代初期の話しである。以後原田氏はここの地名を姓に、秋月氏を名乗るようになった。しかし秋月氏の時代は戦国乱世であった。城もいまの場所ではなく古処山に築いた山城である。秋月氏は筑前、筑後、豊前11郡(36万石に匹敵)を支配していたが、豊臣秀吉の九州征伐の折敗れ、日向高鍋に移封された。ここに約400年にわたる秋月氏の栄華が終わることになった。 
 そもそも秋月の地名が歴史に初めて登場するのは正暦3(992)年の「大宰府符」である。この史料には、大宰府が筥崎宮塔院の申請により、同院領の秋月荘内に検田使が入って勝手に検地することを止めるよう、筑前国司に伝えたことが記されている。このころは、秋月が筥崎宮塔院の領地であったことを示している。
 秋月氏の登場はこののちの鎌倉時代になるが、秋月氏支配は天正15(1587)年までである。黒田長政が筑前に入るまでの17年間は小早川隆景が支配地としていたそうだが、隆景は秋月をさほど重要視していなかったのか、小早川氏の秋月史料はまったく残っていないらしい。
 秋月は黒田長興が城下町を作ったことで情緒豊かな町に変わった。住まいも「一般には秋月城といわれていますが、天守閣がなかったから城とはいえません。正確には館です」(内田氏)。独立支藩の象徴も作らず、直之が使っていた館を修理して自分の住まいにしていた。秋月は長興の質素謙虚な人柄がしのばれる町であった。

秋月城
福岡県甘木市野鳥  もとは戦国時代の秋月氏が築造した居館。黒田長政の筑前入部とともに黒田図書助直之が入封し居館跡に入居した。その後長政の3男長興が入封し、直之が住まいにしていた屋敷を修理し住まいに。現在残っているのは瓦坂、長屋門、移設した黒門だけである。

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