2003年5月号141ページに掲載

島紀行 大陸と日本を結ぶ文化文明のクロスアイランド

第20回 小値賀島


古路島の火口原形の断面(中央Y字形の白い部分)
 五島列島の北部に位置する小値賀町は、17の島と2つの岩礁からなっている。町の中心は小値賀島。新生代第4紀の約165万年前、いくつもの小規模な海底火山の噴火によって生まれた島である。人類誕生のころにできた噴石丘群と、玄武岩の溶岩で形成されたいわば火山島。それだけに火山弾や噴火口の跡がいまでもあちこちで見られる。自然が造った神秘的な造形物や、島の歴史を訪ねるために小値賀島へ渡った。

<5小見出し島>

火山博物館の小値賀島

 佐世保から高速船で約1時間半の海上に浮かぶ小値賀島が、火山島であることは正直言って訪れるまで知らなかった。赤面の至りである。「小値賀は大小17の島と2つの大岩礁から形成されていますが、この小さな島々に全部で21もの火山があります」とは、野崎島で『島の自然学校』を運営する西本五十六氏。『〜学校』については後述するが、町の歴史は役場の方がくわしいということで小値賀町役場へ向かった。水産商工課・神川清課長と同・神崎健司氏の対応で、小値賀の地質、歴史、現状、課題などを聞く。そこでわかったことが、小値賀町全体が火山島の集積ということだ。
 小値賀島を始めとする周辺諸島は小値賀島火山群と呼ばれている。役場に『火山の博物館』という小冊子があるが、それをみると小値賀の地質がよく理解できる。これは前町長の津田育佑氏が、通産省工業技術院地質調査所を退官した松井和典氏に依頼し、平成2年に発行されたもの。
 それによると、東西約17キロの諸島のなかに21もの火山が散在している。すべていまから2〜3万年前に、海岸や陸上で噴火したものである。単成火山と呼ばれる形体で、数十秒から数十分ごとに火口からマグマのしぶきや巨大な花火のような火山弾を噴出するストロンボリ式噴火という様式だそうだ。
 島々はおおむね円丘状のなだらかな地形をなしており、赤褐色の特異な土質の色をしているが、それぞれ形が異なり本島を中心に箱庭のように美しく配置されている。その景観が他地域の島しょ群と著しく違うことから、それぞれの島が国立公園に指定されているのである。
 火山群の遺跡はそれぞれの島にあり、その分見どころも多いのだが、小値賀本島の番岳や斑島のポットホールなどはその代表的な例といえる。
斑島には国天然記念物に指定されているポットホールがいくつもある
 斑島は、火山群のなかで番岳に次ぐ規模の火山島。126.3メートルの頂上に登れば、火口地形がひと目で観察できる。北側海岸の崖はほとんど溶岩流が作ったもの。なかには岩丘を溶岩流が覆っているところもある。ポットホールはこの近くにあるのだが、ひとつだけと思っていたそれは、大小いくつもあった。最も大きいものでは、深さ3メートル、入口径1メートル、底径60センチもある。その穴に直径40センチの玉石があるのだ。わが国では最大のものであり、世界的にもめずらしいとのこと。昭和33年には国天然記念物にも指定されている。
 玉石はみごとなまでに黒光りしたまん丸い石である。岩の裂け目から荒波が奔流し、穴のなかの岩を転がす。岩もまた穴を研磨し次第次第丸い石に変形する。ここまでなるには相当な年月を費やしているのだろうが、自然が作ったみごとな天然の造形物だ。これもまた火山の噴火による副産物である。 
 古路島のネックといわれるY字形の火口の原形も見物だ。噴火の際の溶岩流が火口まで押し上げられたところで火山活動を停止、そのまま冷却した噴火口壁の断面が海蝕によって現れ、Y字形の火口の原形が露出したのである。地質学的にも非常にめずらしいサンプルで、県の天然記念物に指定されている。 <5小見出し島>

古代は「海のシルクロード」 の中継地点

野崎島に生息する野生鹿
 小値賀では、最も早く人類が生活していたと証明される約2万年以前の石器類が多く出土している。それらの史料は「小値賀町歴史民俗資料館」で見られるが、原始・古代、中世、近世、近・現代と、とにかく豊富だ。
 旧石器時代の遺跡は町内から11カ所も発見されたとのこと。縄文時代のものが13カ所、弥生時代は9カ所、古墳時代の墳墓も3カ所から発見されている。古墳時代の遺跡は五島列島からはほとんど発掘されていない。小値賀から古代朝鮮伽耶系陶質土器が発見されたということは、その時代から小値賀では大陸との交流があったということだ。
 古事記に、「…次に知訶島を生みき。亦の名は天之忍男と謂ふ…」という記述がある。忍男とは島がたくさんあるという意味である。また知訶島は五島列島全体を指すと解釈されている。その中心が、当時はおそらく小値賀であったのではないだろうか。
 遣唐使が中国・唐に派遣されたのは7世紀から9世紀にかけてである。630年から894年の264年間に19回派遣されたが、実際に渡海したのは15回。そのうち無事往復できたのは1回だけというから、いかに当時の航海が危険きわまりない冒険だったかがわかる。一度の航海に派遣される一行は、4隻の帆船に大使、副使以下留学僧、留学生、職人、水夫、従者など100人から200人が乗り組んでいた。多いときには500人にも上ったようだ。
 遣唐使の出発地は難波三津浦。そして瀬戸内経由で博多へ。ここからの航路は大きく3つに分けられる。筑紫−壱岐―対馬−百済−山東半島の北路。筑紫−平戸−種子島−屋久島−奄美−徳之島−沖縄−久米島−石垣島−揚子江河口の南東路。筑紫−平戸−宇久島−小値賀島−福江島−揚子江河口の南路である。始めは北路を利用していたが、新羅との関係が悪化した8世紀以降沖縄経由のルートがとられた。しかし776年からは五島列島経由の東シナ海横断ルート。ここでも小値賀は中継地点として大切な役割を果たしている。
野崎島野首天主堂。昨年大好評を博した「おぢか国際音楽祭」が今年も開催される
 歴史的に見ると小値賀は五島地域の中心的存在だったようだが、現在は福江にとって代わられている。いまクローズアップされている合併問題にしても、小値賀は五島に入れられず、宇久島とともに佐世保市に吸収される。現在人口は3654人。10年前と比較すると1000人減である。過疎に悩む小値賀の財政運営はこれまで佐世保市の約4倍。ところが合併し、佐世保市になることで将来の財政不安は大幅に緩和されることになる。これからは佐世保市内になるとはいえ、小値賀が小値賀らしいブランドを確立し、由緒ある歴史に裏打ちされる個性を発揮することが望まれる。もっともその動きはすでに一部で始まっている。その一例が、昨年大成功を収めた「おぢか国際音楽祭」である。
 「〜音楽祭」は今年でまだ2回目という歴史の浅い音楽祭。第1回目の昨年はゴールデンウィークに開催。総合プロデューサーはヴァイオリニストの萩原淑子氏。彼女の縁で、ザルツブルグで活躍中の世界的音楽家を集めてのコンサートと、音楽家たちのレッスンが受けられるユニークな音楽祭だ。会場は野崎島の野首天主堂。イベントのためという大義名分のもと、多額の予算をかけて器づくりから始める行政が多いなか、教会が舞台という手作りの素朴さが、演奏家、聴衆を感動させた。今年はさらに「楽器製作講座」を開設するなど工夫を凝らし、「オープニングコンサート」「教会コンサート」「ファイナルコンサート」「ミニコンサート」なども企画。自然と共生しながら豊かで潤いある交流を目指す。

子供たちと自然回帰する『島の自然学校』

野崎島の自然学校、夏になると自然と共生する子供たちで賑わう
 野崎島では「おぢか国際音楽祭」のほかに、『野崎島自然学塾村』がある。冒頭で紹介した西本五十六氏がプロデュースする子供のための「自然学校」である。『〜学塾村』の学校宣言には、次のように記されている。「自然が私たちに教えてくれる重要なことのひとつは知恵だ。学校では知識は習うが知恵はなかなか身につかない。自然のなかで生活することのよいところは、知恵を鍛えてくれることだ。今の日本を見ると、子供も大人も、自然のなかで自己を鍛える機会を失っている。そして身近な自然が遠い存在になろうとしている。子供たちのためにも、自分たちのためにも、もう一度自然に帰ろう」
 野崎島は小値賀島の東1.5キロの距離にある。南北に長いのだが、そのほとんどに尾根が伝い、結構険しい山容を見せている。山容は海岸から急斜面となり海に落ち込む。平地が見れるのは東側の野崎集落くらい。全島が自然林で覆われているため野生の鹿がたくさん生息している。野山や海など自然もそのままの形で残っている。島には3集落あったのだが、昭和41年にまず舟森集落が、同46年には野首集落が、唯一残っていた野崎集落もいまでは無人と化した。
 『〜学塾村』は廃校となった小学校を改装したもの。野崎島の自然を子供たちから大人まで理解してもらうために再建された施設である。「無人島では行政から予算がおりないため、私が住民票を移転して運営するという窮余の策」(西本氏)とのこと。
 西本氏は小値賀島の魅力に惚れ込んで、2年前の4月、京都から引っ越してきたというほどの島ファン。「島の自然学校」の専従プロデューサー兼事務局長であり、「野崎島ワイルドパーク自然学塾村」の管理人も務める。「塾内には学習研究室、資料室、作業室、プレイルーム、宿泊室、キャンプ場、炊事棟などが完備され、子供たちが自由に自主的に学習し行動できるようになっている」とのこと。子供たちが自然のなかで、あらゆることを自らの知恵と行動で解決していく自主性が身につけばと話す。
 塾村を拠点に、鹿の観察、海辺での研究、水泳、釣り、磯遊び、原生林のある神島神社への登山、自然遊歩道での散策など、野崎島ならではの環境のなかで、自然のすばらしさ、美しさ、大切さが肌で感じられる―それがこの塾村のコンセプトである。開村期間は通年だが、「忙しくなるのは春から夏にかけて」(西本氏)だそうだ。子供たちには日頃経験できない異次元の世界がここにはある。                  (加藤哲也)

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