島紀行 大陸と日本を結ぶ文化文明のクロスアイランド第1回 対馬
九州は離島が多い。特に長崎、鹿児島両県は、日本の代表的な島しょ県だ。われわれの日常は、離島と無縁のところで回っているだけに、普段あまり気にすることがない。しかし歴史をさかのぼって見れば、異国の文化、文明は、まず離島に入っている。そしてそこに根づいた文化は風土となり、今に至り未来へ伝えられる。地方、とりわけ離島は辺境の地として、機能的に整備された都市からは後進的な目で見られてきた。しかしいまや通信、情報メディアの進化により、ボーダレス化が進んでいる。とはいえ離島振興を進める上で、歴史が培ってきたものは大きい。それらを基盤に、島はいかに未来へ羽ばたこうとしているのか。新シリーズでは、九州の島が抱える歴史と今のかかわりを探ってみる。国境の島韓国釜山まで約50キロ、博多まで約150キロの地点に対馬はある。九州最北端の島とはいえ、文化圏としては完全に韓国に近い。−およそ1万年前の洪積世の中ごろまでは、対馬はアジア大陸と陸続きであった。その後東シナ海が浸食し、洪積世の終わりごろ、現在の朝鮮半島と日本列島との間が切れ、それまで大きな湖だった日本海が東シナ海に通じた。そのとき対馬は島となった− 対馬島誕生の史書にはそのように書かれている。上県町で発掘された越高遺跡の土器は舶載土器では国内最古。対馬と朝鮮の間に人と物の交流があったことを証明している。 その後の時代にも、朝鮮系の文物の往来が頻繁であったことを裏づけるものは数多く発見されている。たとえば、「現存する最古の朝鮮鐘は、韓国江原道上院寺にある開元13(725)年銘のものだが、対馬の国府八幡宮には天宝4(745)年銘のものがあった。しかしこれは、残念ながら明治維新前後に焼失してしまった」(郷土史家・小松勝助氏)。また、7月9日美津島町の水崎遺跡で出土した石帯についても、「15世紀前後の朝鮮王朝の高官が身につけていたと思われるメノウ製の装飾品。朝鮮の石帯が遺跡で見つかったのは全国で初めて。対馬で日朝交流が盛んに行なわれていた貴重な史料」(同)と語る。 これらの史実だけでも対馬が韓国文化の影響を強く受けていたことがわかる。その文化が、現在形に残っている代表的なものが朝鮮通信使だろう。
芳洲は、近江国(滋賀県)伊香郡高月の生まれ。それにちなんで厳原町は、現在高月町と姉妹関係にある。生家が町医者だったことから初めは医学を志すが、やがて儒学に転向。当時住んでいた京都の学風に影響されたとのことだが、18歳のころ江戸に出て木下順庵の門下に入った。そこで頭角を表し、新井白石、室鳩巣らとともに木門の五先生とまでいわれるようになる。 対馬と縁ができたのは22歳(元禄3年=1690)の時。師の順庵に推挙され、対馬藩の儒者に就任したのがきっかけである。26歳で対馬に渡り朝鮮方佐役となった。以後本格的に朝鮮関係の諸事をあずかるようになり、そのため中国語、朝鮮語も習得。通信使来日の折は、真文役となって江戸へ随行していた。また外交使節として朝鮮に渡ることも多く、日朝外交の実務にも精通。ほかの儒者にはみられない異彩を放っていた。
さらに享保6(1721)年、藩内に朝鮮訳官による密貿易事件が起きたとき、穏便にすませて癒着を図ろうとする藩当局に対し、以後の密貿易を根絶するために敢然と厳罰を主張。しかしそれが受け入れられなかったため朝鮮方佐役を辞任。家督も長男に譲り隠居してしまった。 このような潔癖で頑固な性格だから、真の交流とは何かを常に問い続け、やがて『交隣提醒』に結実することになる。その中で説く「互イニ不欺、不争、真実ヲ以テ交リ候ヲ誠信トハ申シ候」は、平成元年5月に当時の韓国大統領廬泰愚氏が来日した折、この言葉を使いながら演説したことでも知られている。廬泰愚氏は雨森芳洲の名を挙げ、芳洲が唱えた「誠信外交」の精神や、江戸時代の日韓友好の歴史を説きながら、今後の日韓関係の発展を望む演説をしたのである。 その雨森芳洲の精神は、いま対馬でどのように生かされ、後世に伝えられようとしているのだろうか。 対馬はひとつ毎年8月第一土、日曜日は、厳原町で“アリラン祭”が開催される。島内最大規模のこの祭りの呼び物が朝鮮通信使行列。韓国から正使、副使、舞踏団なども招いて行っている。時代考証により、韓国ソウルで製作された衣装をまとって、総勢500人で練り歩く華やかな大行列は圧巻。「祭り見物に、近年は韓国からの観光客も増えている」(渕上清厳原町長)そうだが、いま厳原町が力を入れているのが朝鮮通信使縁地交流。対馬から江戸まで、通信使が通ったゆかりの町と交流を持ち、「誠信交隣」の精神を深め合おうというものだ。現在22市町村が交流しあい、縁地連絡協議会も組織。毎年交流大会を開催している。7回目を迎える今年は、11月3日兵庫県御津町で開かれる予定。
江戸時代以降、宗家10万石の城下町として栄えてきた厳原は、朝鮮外交の窓口だったこともあって歴史的文化遺産も数多く保有している。いわば対馬の歴史、文化を伝える、中心的役割を果たしてきた町といっても過言ではない。 しかし、「これからの対馬を考えれば、厳原だけにスポットを当てるわけにはいかない」(長町忠一対馬観光物産協会会長)という意見も一方ではある。 日韓交流は、朝鮮通信使という歴史背景をバックボーンに、厳原町ばかりが目立っているが、美津島町、豊玉町、上対馬町も積極的に交流を図り、関連のイベントも展開している。 たとえば8月25日に開催される美津島町の「対馬ちんぐ音楽祭」では、日韓のミュージシャンが共演する。 上対馬町で同月8日に開かれる「国境マラソンIN対馬」は今年で5回目。今回は慶州市から来賓とランナー約69人が出席する予定。参加者数も1151人(うち韓国人99人)と過去最多である。 豊玉町では、韓国の大学生と豊玉高校の生徒がソフトボールなどを通じて交流する「日韓オープンカレッジ・イン対馬」が7月に催された。 さらに上県町では7月23日から8月2日まで、韓国の大学生がホームステイ。
しかも3年後には6町が合併し、ひとつの市になることも決まっている。「市の名前を全国から公募したところ、現時点では対馬市が一番多い」(木谷博昌美津島町助役)そうだが、字はひらかな、あるいは対島というものもあるそうだ。 市庁舎をどこの町に置くか、その場合ほかの町にはすべてに支所を置くのか、それでは機能的にいままでとほとんど変わらない、などと問題は紛糾し、まだ結論は出ていない。 「問題は全島が平等に栄えてこそ対馬がひとつになれるということ。そのための課題として、第一次産業と第三次産業の融合をまず図り、対馬の新たな産業創出に結びつけたい」(同)。 対馬には産業がない。一応農林水産業と町勢要覧にはうたっているが、農、林は自立できるほどの産業になっていない。かろうじて水産業が成り立っているくらいだが、それすらも「就業者が漁獲したものを、それぞれ出先から直接他地域で売りさばいて来るから、漁協の水揚げとしては実際よりもずいぶん少ない」(岸原福彌厳原町商工会会長)というありさまだ。
産業のない島だけに頼るのは観光。観光で訪れる入域客に、対馬ブランドの特産物を売る。そのためにも、木谷助役のいう一次産業と三次産業の融合システムの確立が急がれる。 同時に観光を基幹産業にするには課題も多い。一番の問題は道路整備。「現在国道382号を車で走ると、南の厳原から北の比田勝まで2時間はゆうにかかる。これを90分、いや60分くらいで結べるようにならないと、島内観光は時間がかかり過ぎて観光客には不便」(木谷助役)。 昭和28年に制定された離島振興法で、対馬はこれまで4回の延長がなされてきた。基盤整備に投じられた事業費も4500億円にのぼっている。それでも交通環境はまだ万全とはいえないようだ。確かに空港、港湾の整備は飛躍的に進んだ。現在、厳原〜釜山は月、水、金と週3便フェリーが出航。比田勝からも週2便出航している。日本からよりも韓国からの利用者の方が多いという。 対馬はいま、全島が日韓交流の島になるという意識は強い。それをより高めるためにも6町がスクラムを組み、山積する課題をクリアしなければならない。それができてこそ、本当の意味での「誠信交隣」の日韓交流が生まれるといえそうだ。 (加藤 哲也) | ||||||
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